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張 徳勝(ちょう とくしょう、1328年 - 1360年)は、元末の軍人。字は仁輔(じんほ)。 合肥(現在の安徽省合肥市) の人。朱元璋に仕えて、彼の勢力拡大に貢献した。 ==生涯== 才略豊かで、気性は雄々しく優れていた。 1355年5月、兪通海らと共に朱元璋に臣従する。6月、渡江し、采石、太平を攻略した。陳埜先が攻めてきたが、湯和らと共に破り、陳埜先を捕らえた。 1356年3月、集慶、鎮江を攻略し、秦淮翼元帥を授かった。 1357年3月、常州を攻略し、枢密院判に抜擢された。4月、寧国を攻略し、長槍兵を収めた。5月、太湖、馬跡山を攻略する。6月、宜興を攻略し、馬馱沙、石牌の寨を攻略した。僉枢密院事に進んだ。 1358年4月、趙普勝が池州を攻略した。張徳勝は援護に向かったが、果せずに帰還した。10月、徐達に従って、宜興を攻略する。 1359年3月、趙普勝が青陽、石埭を攻めた。4月、張徳勝は柵江口で戦い、敵軍を敗走させた。同じく兪通海も敵軍を破り、池州を回復した。9月、徐達と共に、浮山から退却する趙普勝の将・胡総管を追撃し、青山で戦った。北へ逃れる敵軍を追い、潜山へ至った。陳友諒の将・郭泰が沙河で張徳勝を攻めたが、これを斬って勝利する。そして、潜山を攻略した。 1360年5月、陳友諒が龍江へ侵攻した。張徳勝は水軍を率いて龍江関から出撃し、敵兵を多く討ち取った。張徳勝は大きく叫び、士気を鼓舞したため、諸将は奮起して戦った。陳友諒軍は大敗し、朱元璋の命により、張徳勝は諸将と共に追撃し、慈湖で敵船を焼き払った。采石に至り、戦いの最中に亡くなった。 蔡国公を贈られ、忠毅と諡された。肖像を功臣廟に奉られ、太祖廟に祀られた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「張徳勝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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