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張 徳昌(チャン・ドクチャン、、1903年5月9日-1972年7月11日)は大日本帝国の飛行機操縦士であり大韓民国の軍人。韓国空軍創設者の1人。創氏改名時の日本名は華山徳昌。 == 人物 == 1903年5月、平安北道義州郡に生まれる。7歳の時にソウルに移住。1917年にアート・スミスの曲芸飛行を見て飛行士になる決心をした。1919年3月に卒業。日本に渡り1921年に伊藤飛行機研究所第1期卒業。 1922年4月に三等操縦士の免許を取得、安昌男に続き2番目の朝鮮人飛行士となる。1923年、二等操縦士の免許取得。1927年6月2日、一等操縦士の免許取得〔。井上長一に師事し、日本航空輸送研究所に勤務〔。勤務中に井上の娘の順子と結婚する〔。1939年に大日本航空へ入社し機長として活躍〔。 第2次世界大戦末期に日本陸軍の猛作戦の要員として金浦飛行場で勤務中に終戦を迎えた〔。飛行時間9820時間であり、これは戦時中の日本で3位の記録であった。 解放後は韓国空軍の創設に参加し1948年4月に航空幹部要員として歩兵学校に入校。5月に卒業して任少尉(軍番50004番)。8月、陸軍航空基地部隊長。1949年10月、航空基地司令官。 1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発。戦争中に6261回出撃し、1953年に飛行時間が1万時間に達した。 1950年8月、飛行団長。1953年4月、少将に昇進。1953年5月、空軍本部行政参謀副長兼第1訓練飛行団長。1955年3月、空軍参謀次長。1956年11月、中将に昇進。1956年12月、空軍参謀総長。1958年12月、参謀総長を離任して参謀総長顧問に就任。1959年2月、予備役編入。 1972年7月、病没。国立ソウル顕忠院将軍墓地の一角に夫婦揃って墓碑が建っている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「張徳昌」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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