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張成沢 : ウィキペディア日本語版
張成沢[ちゃん そんてく]

張 成沢(チャン・ソンテク、、1946年2月6日 - 2013年12月12日)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の政治家。北朝鮮の初代最高指導者金日成の娘で金正日の実妹にあたる金敬姫を妻とし、金正日の側近を務めた。金正日の死後は、甥である金正恩の後見人的存在として〔名村隆寛「北、張氏解任を発表 『反党・反革命的行為』」『産経新聞』2013年12月9日大阪版夕刊1面。〕、朝鮮民主主義人民共和国国防委員会副委員長、朝鮮労働党中央委員会政治局員、朝鮮労働党中央軍事委員会委員、朝鮮労働党中央委員会行政部長などの要職を務め、朝鮮人民軍においては大将軍事称号階級)を保有〔「正恩氏後見 張成沢氏は「大将」軍服姿放映 軍での影響力増大」『読売新聞』2011年12月26日東京朝刊1面。〕するなど、党・国家・軍の機構に影響力を行使する立場にあり、金正恩体制における実質的なナンバー2と見られていた。しかし、2013年12月に粛清され〔NHKアーカイブス 〕、朝鮮労働党から除名され全ての役職称号を失い〔北朝鮮 チャン・ソンテク氏の解任発表 NHKニュース 2013年12月9日〕、同月12日に「国家転覆陰謀行為」により死刑判決を受け、即日処刑された張成沢氏を処刑 「敵に同調、国家転覆陰謀」と朝鮮中央放送 死刑判決、即日執行 産経新聞 2013年12月13日閲覧〕。
== 経歴 ==

=== 金日成体制から金正日体制後期まで ===
江原道川内郡出身。金日成総合大学の卒業生。
1968年から1972年までソビエト連邦モスクワに留学していた。
若い頃は容姿端麗かつ性格も開放的で酒にも強く、大学では性別問わず人気者であった。頭の回転が速く、機敏で気の利く遊び人だった性分を、当時上級生だった金正日に気に入られ、幼少時に事故で死去していた弟の代わりの様に可愛がられる。金敬姫とは大学の同級生であり、張成沢に憧れ惹かれていた金敬姫からのアプローチをきっかけに付き合うようになっていた。しかし、生来の遊び癖気質やその出身身分の低さを金敬姫の実父であり、かつ当時、既に国内最高権力者の地位にあった金日成には疎んじられ〔ミヤネ屋 2013年12月16日放送より〕、一時江原道の元山経済大学に強制転学させられる。実妹の悲しみを払いたい想いや金正日自身の張成沢の将来への期待などから、やがて金正日のとりなしで中央に復帰し、1972年に金敬姫と結婚〔一時は金正日総書記の後継者候補、結局は甥に…(1) 中央日報 2013年12月8日〕、学生時代からの金正日の希望通り、彼の側近となった。しかしその後、一時敬姫との夫婦仲が悪くなり、DVなどにも及ぶようになったことを金正日が激怒。1978年から2年間、ガンソン製鉄所で思想化教育を受ける。
金日成体制下では、平壌市党委員会指導員としてキャリアをスタートさせ、党組織指導部外交部担当、党員登録課長を務めながら実務を学び、1982年に党青少年事業部副部長、1985年に党青少年事業部第一副部長、1988年に党青少年事業副部長、1989年に青年および三大革命小組部長に就任し三大革命赤旗獲得運動を推進するなど、金正日の側近としてキャリアを進めてきた〔。
金日成が死去し金正日体制が発足した後は、1995年に朝鮮労働党中央委員会組織指導部第一副部長(行政担当)に就任し、1997年から2000年まで社会安全部内の秘密警察組織「深化組」を指揮、2万5千人にも及ぶ大規模な粛清を行った(深化組事件)。
しかし、2003年10月より以後、消息報道が長期間途絶える。ほどなく2004年2月頃には、「権力欲による分派行為」を疑われて失脚したという情報も飛び交い、同時に張が所掌していた党行政部も解体された〔金総書記の義弟が党行政部に昇進、実勢に完全復帰 聨合ニュース 2007年11月21日〕。これについては、張と同職の党中央委員会組織指導部第一副部長(組織担当)の李済剛(リ・ジェガン)により失脚させられたとの疑いがある〔拷問、犬刑、密告、政治収容所 恐怖支配強まる金正恩の北朝鮮2 産経ニュース 2013年12月23日〕。しかし2006年1月29日朝鮮中央通信の報道などで、張が2005年12月に復権していたことが判明。復権の際、北朝鮮の報道では、党中央委員会組織指導部第一副部長ではなく、単に党中央委員会第一副部長として紹介された。なお、首都建設部第一副部長として復権したとされている。
復帰前後の2005年と2006年9月には、張が乗っていた乗用車に軍用トラックが衝突して張が重傷を負う事故が発生しているが、李済剛による謀殺未遂であると疑われている〔北朝鮮の交通事故偽装テロ 東亜日報 2010年5月10日〕。
2007年には、国家安全保衛部人民保安省、中央検察所、中央裁判所などの公安部門を統括する党行政部が復活し、党行政部長に張が就任し、本格的に権力への復帰を果たした。これと同時に党組織指導部の思想検閲・査定の権限が、党行政部に大幅に移管したのではないかと分析されたが、専門家により意見は分かれた〔“張成沢, 査定作業を指揮”…ナンバー2が復活? デイリーNK 2008年3月18日〕。張の失脚後に、李済剛が張が所掌していた業務を一手に引き受け「労働党内の総督」と呼ばれるほどの権勢を揮ったことから、金正日が李済剛を牽制するために張を復帰させたものと分析されている〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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