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張明夫 ( リダイレクト:福士敬章 ) : ウィキペディア日本語版
福士敬章[ふくし ひろあき]

福士 敬章(ふくし ひろあき、本名:張 明夫(チャン・ミョンブ)、ハングル:、1950年12月27日 - 2005年4月13日)は、鳥取県八頭郡智頭町出身のプロ野球選手投手)。在日韓国人<野球>ハンファ、在日同胞の姜秉秀と契約 〕。登録名は1978年まで松原 明夫1979年福士 明夫
長男はスポーツメーカーのグラブ職人。二男は大相撲朝日山部屋の元力士大瀬(だいせ)、最高位は三段目19枚目。三男はオフィスキイワード所属でMCタレント、ナレーターの福士幹朗。
== 来歴・人物 ==
鳥取県立鳥取西高等学校では、エースとして夏の甲子園県予選準決勝に進出するが、米子南高に惜敗。同年のドラフト外で広島、大洋との争奪戦の末、読売ジャイアンツに入団。2年目のに一軍昇格を果たし、開幕第4戦に先発で起用されるなど川上哲治監督の期待が大きかったが、なかなか結果を出せなかった。
富田勝との交換トレードで山内新一と共に南海ホークスへ移籍。同年、野村克也監督のもと、チェンジアップフォークを武器にローテーションの一角に成長し、7勝を挙げてリーグ優勝に貢献。日本シリーズにも先発で登板する。ちなみにトレードの際川上が「移籍して活躍したら返す」という条件で野村に福士を渡し、活躍したため巨人復帰が可能だったが、福士本人が「裏切られた」と思っており復帰を拒否したという。
広島東洋カープ古葉竹識監督の希望により、金城基泰との交換トレードで広島に移籍。先発投手として活躍し、15勝を二度マーク。・の連続日本一にも貢献し、カープ黄金期の一翼を担った。"ブラッシュボールの名手"として知られ〔週刊新潮1982年9月2日号120頁〕、そのボールを投げると相手ベンチから「来た!!」の声が一斉に上がった〔。尚、広島移籍後は松原明夫から福士明夫福士敬章と登録名が変わっているがこれは家族との間で問題が起こったためである。にわずか3勝に終わると同年限りで退団。
に本名の張明夫の登録名で、創設2年目の韓国プロ野球三美スーパースターズに入団。
同年登板60試合で36完投、427イニング1/3投球、30勝16敗6セーブと驚異的な成績で最多勝を獲得。当時の韓国プロ野球の試合数は前後期制の100試合で、この年の三美の成績は52勝47敗1引き分けで3位だった。チームの試合と勝利のおよそ60%を担い、前年の前後期制80試合で15勝65敗のダントツの最下位だったチームをAクラスに引き上げる、文字通りの牽引役になった。この30勝は現在でも韓国プロ野球記録であり、また創成期の韓国プロ野球のレベルを物語るエピソードともいえる。当時の韓国プロ野球投手はは力任せの投球が主流だったか、福士は日本のプロ野球で養われた打者との駆け引きの巧さで力を省く技術を韓国プロ野球に伝えレベルアップに貢献した。韓国では一見茫洋とした顔つきな上、一度も内角に投げなかったことから悪賢いというイメージをもたれ「ノグリ(너구리)」(タヌキ)というニックネームがついた。
この凄まじい記録の裏側には、シーズン前、球団社長が「30勝をすれば、1億ウォン(当時のレートで約2500万円)のボーナスを追加してくれる」という言質があった。社長はまさか100試合制で30勝が可能だとは思わず出した発言だったが、これを口頭契約と信じ込んだ福士は30勝を満たそうと状況を問わず、勝利のチャンスがあれば登板して投げ込んだ。しかし、目標を達成しようという焦りから、降板を巡って首脳陣と言い争いをすることもあった。しかし、記録の達成を目にした社長が、オーナーの裁可もなしで発した自分の一言に責任を避けようと、上述の「1億ウォンのボーナス」発言について知らないふりをしたため、福士は球団に対して不信感を持つようになった。翌もスーパースターズと契約して試合には出たが、すでに意欲を喪失していた。投げ出しに近い状態で負けを重ね、13勝20敗と成績を落として、チームは最下位に逆戻りした。翌も同じような投球で11勝は挙げたが、シーズン25敗の韓国記録を作った。
ピングレ・イーグルスに移籍。年齢から来る衰えに逆らえず1勝18敗の記録を残して、同年に現役引退。その後は韓国でロッテ・ジャイアンツのコーチを務めたが1991年5月、麻薬所持および使用の疑いで韓国警察に逮捕され、韓国球界から追われた。
その後、日本に帰り、実母の郷里である和歌山県麻雀店を営みながら生活していた。2005年4月13日に急死。満54歳没。経営する店で体調不良を訴え、ソファに横になり、そのまま冷たくなっていたという〔日めくりプロ野球【1月18日】1983年(昭58) 「切れで勝負できるうちに」福士敬章 初の韓国移籍投手に - スポニチANNEX 2010年1月18日〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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