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張明澄(ちょう めいちょう、日本名:小島聖一)は台湾の医師、五術家。漢学、経済学、中国医学の研究家であり、雲門禅、東派仙道、南華密教、明澄派の継承者でもある。特に「熱寒」分類による中国医学と、「五術」を日本に伝えたことで知られる。なお、五術家としての名は張耀文と称する。 == 家系と生涯 == 1934年3月20日、日本統治下の台湾台中州に生まれる。張家は明の宰相張居正の子孫と自称しており、張居正が書き残したとされる『経世済民書』という文書を伝承する。その教えに従い、一家は台湾人初の東京帝大卒者を産むなど高学歴であり、医者や官僚、政治家などを輩出する。また父・張木は、彰化県員林に医院を開業する西洋医学の医師だったが、母方の祖父は台湾で著名な漢方医で五術家の王文澤であり、張明澄も幼少時から家学としての漢学、中国医学、五術を父から仕込まれ、特に『傷寒論』『唐詩三百首』『滴天髄』などは丸暗記させられ、できないと鞭で打たれたという。その反発からか医者の道には進まず、中興大学で農業経済学を学ぶ。学生時代は卓球の選手として知られ、台湾第三位の実績を持つ。卒業後徴兵により2年間金門島の弾雨の中で過ごし、帰還後は高校(台湾では高級中学)教師となる。 1964年、農業経済学の知識と日本語コンクールで優勝するなどの日本語能力を買われ、日本の経済産業省に当たる中華民国行政院経済部荐任官に採用され専ら日本との通商交渉に当たる。このころ度々来日して、中国医学の指導の他、明澄五術の紹介も行う。 1967年、『誤訳・愚訳 漢文の読めない漢学者たち』を日本で出版するなど、盛んに執筆活動を行う。また、張耀文の名で『奇門遁甲天書/地書 評註』などを発表し、台湾で一大奇門遁甲ブームを巻き起こしたのもこの前後である。 1968年、請われて逢甲工商学院講師に転じ、1970年から大同工学院副教授となる。 1972年、笹川良一の関わる松山市の健康団体での気功・中国医学指導のため妻子ともども日本に移住する。さらに1977年には家族揃って日本に帰化し、戸籍名を小島聖一と改める。 1988年、船橋市に居住し、中国医学交際交流学会代表として、主に東京都内で中国医学講座を開き医師や薬剤師らの指導に当たる。 1994年、南華密教学の講座を開講、明澄五術の講座も開講する。この頃から自分の学問体系を、漢学、経済学、中国医学、南華密教学、人生成型理学(明澄五術)の五部門に分類し「員林学」と名づける。出身地の台湾員林と、儒林、杏林、竹林など、学問分野に「林」をつけて呼ぶ習慣とを掛け合わせたものという。 2004年11月1日死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「張明澄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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