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チュオン・タン・サン(, 漢字: 張晋創, 1949年1月21日 - )は、ベトナムの政治家。第5代ベトナム社会主義共和国主席、ベトナム共産党政治局員兼書記局員を務め、党内序列は第2位〔寺本実「第11回ベトナム共産党大会—継続性を堅持しつつ、潮流への適応を模索 」アジア経済研究所、2011年3月(2011年7月30日閲覧)。〕であった。第9期、第10期、第11期、第12期国会議員。法学士。 == 経歴 == 南ベトナムのロンアン省ドゥックホア県ミーハン村に生まれる。ベトナム共和国の支配に反して学生運動に参加し、1969年12月20日、ベトナム労働党(後の共産党)に入党。1975年のサイゴン陥落後は労働組合工作に従事した。 1991年6月、第7回党大会において党中央委員に選出。同年、ホーチミン市人民委員会(市政府)委員長に任命された。 1996年、ホーチミン市党委員会書記に就任する。この直後の第8回党大会において党政治局員に選出され、党内序列第14位となる。この時、サンおよびグエン・タン・ズンは40歳代の若さで政治局入りしたことで注目された〔白石(1999年)、83ページ〕。2000年1月6日、党経済委員会委員長に就任したが、政治局の人事は通常、5年に1度の党大会に合わせて行われるため異例のことであった〔レ・カ・フュー指導部による権力基盤強化のための幹部人事の一環とされる。牛山(2004年)、185ページ〕。 2001年4月、第9回党大会において政治局員に再選され、序列10位に昇格。2003年1月の第9期党中央委員会第7回総会第2部において、ホーチミン市を拠点とした暴力団組織「ナム・カム一味」に関連し、同市党委書記時代の管理責任を問われ譴責処分を受けた〔寺本・坂田(2003年)、200ページ〕。 2006年4月、第10回党大会において政治局員および書記局員に選出され、序列第5位となる。同年5月5日の党政治局決定に基づき、党務を取り仕切る書記局常務に就任した〔坪井(2008年)、119ページ〕。 2011年1月、第11回党大会において政治局員に再選され、序列2位に昇格。同年2月、党政治局決定 (No.01-QDNS/TW) に基づき、書記局員に再任された〔 〕。7月25日、国会で行われた投票で、97.4%の賛成により国家主席に選出された。 日本の政財界に古くから知己も多く、知日派としても知られる。2011年6月に外務省賓客として訪日した際には、3ヶ月前に東日本大震災で津波被害を受けた千葉県旭市へ慰問した。 2016年1月の第12回党大会において党中央委員の候補から外され、引退することが確定〔「次期党中央執行委員200人選出、ズン首相とサン国家主席は引退へ 」 『VIETJOニュース』 2016年1月27日〕。3月31日の第13期国会第11回会議において辞任案が承認され、4月2日のチャン・ダイ・クアン新主席の選出をもって辞任した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チュオン・タン・サン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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