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張浚[ちょう しゅん] 張 浚(ちょう しゅん、1097年 - 1164年)は南宋時代における中国の政治家。字は徳遠。唐朝の名臣であった張九齢の弟・張九皋の子孫である。張栻の父でもある。 == 金国との戦い == 漢州綿竹(四川省)の出身。4歳で孤児となるがすでに大人びて慎重、将来の大器をうかがわせた。太学へ入り進士となり、1126年に太常簿となる。その直後、汴京に金国が侵入し、南方へ逃れた高宗が即位した。高宗の下で累進して礼部侍郎となり、金国が必ず来寇すると予測し、国防の必要を力説する。宰相らには杞憂として採用されなかったが、1128年に金の軍勢が国境を侵しそれに乗じて苗傳・劉正彦が反乱を起こすという事態になる。張浚は川陝諸路宣撫使に任命され、ついで知枢密院事となり反乱軍を鎮圧した。四川の防備の重要なことを訴え自らその任にあたることを請うたので、川陝宣撫処置使に任命された。3年間の在任中、劉子羽・趙開・呉玠を用いて大いに治績をあげ、1131年に呉珍を派遣して和尚原で金軍を壊滅させている。宰相と朱勝非などの弾劾にあい一時職を去ったが、すぐに金軍が劉麟とともに来寇したので、知枢密院として四川に着任せしめたところ、将兵の意気は大いにあがり、金の将軍・兀朮は軍を引いた。のちに金の将である粘没喝は「中国で自分の敵となりうるのは張浚だけである」と言い、四川を取る望みを絶つよう本国に遺言したという。
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