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張 淮深(ちょう わいしん、Zhang Huai-shen、831年-890年)は、唐朝末年の帰義軍節度使であり、張議潮の兄張義譚の子である。咸通八年(867年)、張議潮が入朝して、司徒の位を得た〔『張淮深碑』〕、甥の張淮深を軍務処理のために現地の留めて置いた。張淮深は、任期中、たびたび甘州ウイグル王国を破った。後世、敦煌文書にある「張淮深変文」には、張淮深を徳が深く勇猛な人物として書いている。 乾符三年(876年)、西州のウイグルが、張淮深の領有している伊州(現在の新疆ウイグル自治区クムル市)を攻め落とし、張淮深の勢力は衰え始めた。 大順元年(890年)二月二十二日、張淮深は死亡した。その原因については以下のように論じられており、未だに定説はない。 #張議潮の娘婿である索勛が政変を起こし、張淮深夫妻と六人の子供を殺し、自立して帰義軍節度使になった。 #索勛は、張淮深を殺しておらず、彼の死は、派兵して朱玫が李煴を皇帝にしたのに追随したからである #張議潮の実子張淮鼎が張淮深を殺した。 #張淮深の子供の張延興、張延嗣が、張淮深と異母兄弟の張延暉、張延礼の六兄弟と張淮深夫人潁川郡陳氏を殺した。しかるのちに、張淮深の異母兄弟である張淮鼎を立てた。 #帰義軍内部で、張文彻を中心とした反対派が、張淮深とその一家を殺して、政権を奪おうと企画した。 #張淮鼎が張淮深を殺して、自立して帰義軍節度使になった。 ==参考文献== *《新唐書》 〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「張淮深」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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