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張 燕卿(ちょう えんけい)は中華民国、満州国の政治家。字は耐甫。父は、清末の政治家・張之洞。弟は張仁蠡。甥は張厚琬(ただし燕卿の方が年下である)。 == 事績 == 青島特別高等学校を卒業後に日本に留学する。学習院文科を1920年(民国9年)に卒業した。 1922年(民国11年)、奉天省復県(現在の瓦房店市)の知事となる。1924年(民国13年)、直隷省正定県知事となる。その翌年に、天津県知事に異動し、さらに直隷全省官産処座弁などの役職を兼任した。1926年(民国15年)、天津市特別区市政管理局局長、直隷省石門警察庁庁長をつとめた。翌年、交通部参事、東北辺防軍駐吉林副司令官公署秘書となる。 1931年(民国20年)、長春市政籌備処処長、吉林省実業庁庁長などを歴任した。その後まもなく、張燕卿は満州国建国活動に参加する。1932年(民国21年)2月の建国最高会議では、張は熙洽の代理として出席した。このとき、張は帝制採用を強く主張して、立憲共和制の採用を唱える臧式毅らと対立している〔山室信一『キメラ-満洲国の肖像 増補版』、151頁。〕。 1932年(大同元年)3月9日、満州国が正式に成立し、翌10日、張燕卿は執政府内務官兼実業部総長(後に同部大臣)に任命された〔「満州政府の閣員 昨日正式に発表」『東京朝日新聞』昭和7年(1932年)3月11日。〕。7月、協和会理事長となる。1935年(康徳2年)5月21日、外交部大臣に就任した〔 「鄭総理辞表を捧呈 張景恵氏に大命降下」『東京朝日新聞』昭和15年(1935年)5月22日夕刊。〕。1937年(康徳4年)5月7日、大臣を辞任し〔「満州国内閣改造きょう発表、六大官勇退」『東京朝日新聞』1937年5月8日夕刊。〕、12月に中華民国新民会副会長兼指導部長となった。 満州国崩壊後、張燕卿は日本に亡命し、頭山満の腹心南部圭助に庇護されたという〔横山銕三『「繆斌工作」成ラズ』180頁。〕。1951年〔徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』1885頁。〕、そのまま日本で客死〔。享年54。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「張燕卿」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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