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張献忠 : ウィキペディア日本語版
張献忠[ちょう けんちゅう]

張 献忠(ちょう けんちゅう)は、末の農民反乱軍の指導者。号は敬軒。
== 生涯 ==
陝西延安衛柳樹澗堡(現在の定辺県郝灘郷劉渠村)の出身。もとは軍籍にあったが法を犯して除籍された。崇禎3年(1630年)に王嘉胤が反乱を起こすと、米脂県にいた張献忠はこれに呼応し八大王を自称した。間もなく高迎祥の下に投じて東方へ進出し、山西河南を転戦した。
後に李自成との反目から高迎祥の敗死を招くも、黄河流域へ進んだ李自成と袂を分かち長江流域へ攻め込み湖南江西から四川に侵入して独立勢力を形成した。崇禎10年(1637年)には明軍の総兵官・秦良玉の部隊の攻撃により張献忠の起義軍は大きな損害を受け本人も負傷した。
一時は官軍に降り、崇禎11年(1638年)には湖北省の谷城県の副将となり王家河に駐屯したものの、翌崇禎12年(1639年)に再度明朝に対して反旗を掲げ四川省との境界付近を転戦した。崇禎14年(1641年)に襄陽を破り襄王朱翊銘を殺し、1643年武昌を拠点として「大西王」を称した。
四川に入った張献忠軍は崇禎17年(1644年)8月9日に成都府を陥落させ、巡撫の龍文光、蜀王朱至澍、その妃らはすべて自決した。張献忠は60万の大軍を称して四川省の大半を制し、8月15日には成都府に拠って大西皇帝を称し、大順に改元して成都を西京とした。大西政権は明朝の残存勢力も併呑し、明朝の官制に擬した官僚組織を有するようになった。この頃、布教のため四川に来ていたイエズス会宣教師の(Louis Buglio、漢名:利類思)とガブリエル・デ・マガリャンイス(Gabriel de Magalhāes、漢名:安文思)が張献忠の傘下に入った。〔浅見雅一『教会史料を通してみた張献忠の支配』(史学第五十九巻第二・三合併号所収。)http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php?file_id=59260〕張献忠は以前より四川を離れることを考えていたが、陝西に移動するためには軍事的要衝である漢中の占領が必要であった。順治2年(1645年)には少なくとも二度にわたり、漢中の攻略を試みたが、当時漢中を占拠していた清軍にその都度敗れた。これを契機に張献忠が実行した政権内部の締め付けの強化は大変な抵抗を招き、四川各地で張献忠に対する反乱が勃発した。こうした反乱は政権の内部崩壊につながり、政権上層部の多くの者達が張献忠により殺されることとなった。
李自成を滅ぼして勢いに乗る軍の圧迫を受けて順治3年(1646年)8月4日張献忠は四川を放棄し、陝西に向かうため、西京を離れたが、陝西に出ることなく、10月20日に塩亭県鳳凰山で粛親王豪格の軍勢と交戦中に射殺された。西京を離れた時に700人ほどだった大西の軍はこの時わずか25人にまで減っていた。なお残党は献忠の死後も抵抗を続け、順治16年(1659年)に重慶が陥落するまで清軍への抵抗を続けた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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