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張 禹(ちょう う、? - 紀元前5年)は、前漢後期の人物。字は子文。馮翊蓮勺の人。政治家にして『論語』学の大家。 == 略歴 == 子供の頃、占い師から「この子に経書を学ばせなさい」と言われ、張禹が成長すると長安で学び、易経を施讐から学び、王吉、庸生から論語を学んだ。大成すると多くの弟子を持ち、郡の文学となった。 宣帝の甘露年間に、儒者たちが張禹を推薦したため、宣帝は詔を出して太子太傅蕭望之に質問させた。張禹は易経と論語について答え、蕭望之は彼を認めて試しに政治に使ってみるべきだと上奏した。しかしその上奏は取り上げられず、張禹は故の官に帰った。その後、試しに博士とされた。 元帝初元年間、皇太子が立てられた。皇太子に書経を教える博士鄭寛中は張禹が論語に詳しいと推薦したので、詔が出されて張禹が論語を皇太子に教えることとなり、張禹は光禄大夫にされた。数年後、東平国内史となった。 その後、元帝が死亡し皇太子が皇帝に即位(成帝)すると、鄭寛中と張禹が呼び戻され、師匠であったことを理由に関内侯の位が授けられた。張禹は諸吏、光禄大夫、給事中、領尚書事となったが、成帝の外戚王鳳が大将軍領尚書事であったことから、辞職して王鳳を避けようとした。しかし張禹をとても尊敬する成帝は強く慰留したため、再度政務に戻った。 河平4年(紀元前25年)、丞相王商が失脚すると、後任の丞相となり、安昌侯に封じられた。6年後、鴻嘉元年(紀元前20年)に老病を理由に辞職を願い、許された。特進の位を授かるなど恩典や賞賜を与えられた。張禹は引退しても朝廷で重要な案件があると議論に参与した。 張禹は慎み深く親切であり、一方で利殖に務め、富貴の身となると肥沃な土地を多く買い取った。弟子には大司空に至った彭宣や少府などとなった戴崇がいた。張禹は真面目な彭宣よりも親しみやすく頭が回る戴崇を好んだ。 張禹が自分の墓地として平陵の場所を得ようと願い出た際、成帝の外戚の曲陽侯王根が反対した。しかし成帝は張禹の願いを聞き届けた。そのため王根は張禹を憎み、張禹を讒言するようになったが、成帝はますます張禹を厚遇するようになった。張禹の病気を自ら見舞った際には、張禹が娘と会えるよう、娘が嫁いだ蕭咸を弘農太守に配置換えしたり、無官であった張禹の末子をその場で黄門郎、給事中に任命した。 永始、元延年間に日食や地震が相次ぎ、外戚王氏の専横が原因であると述べる者が多かった。成帝がその事について張禹に意見を聞くと、張禹は王氏と事を構えるのを恐れ、「日食や地震の起こる理由はさまざまでわかりにくいものです。どうして田舎儒者にわかりましょうか。陛下が政治を修めておれば良いのです」と答えた。これによって成帝は王氏を疑わなくなった。王根たち王氏はそれを聞いて喜び、自ら張禹の屋敷へ行った。 張禹は成帝死後、建平2年(紀元前5年)に死亡し、節侯と諡された。子の張宏が後を継いだ。張宏は太常に至り、弟たち3人も校尉などとなった。 張禹は論語(魯論語)を学び、最も尊ばれた。儒者の間では「論語を学ぼうと思うなら、張禹の文を覚えることだ」と言われ、張禹の説が主流となって他の者の説は廃れていった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「張禹」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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