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張篤倫[ちょう とくりん]
張 篤倫(ちょう とくりん、、1892年(清光緒18年)〔徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』1887頁、劉国銘『中国国民党百年人物全書』1243頁による。高衛華「張篤林」491頁は「1894年8月11日」としている。〕 - 1958年(民国47年)10月2日)は、中華民国の軍人・政治家。鄂軍(湖北陸軍)出身で初期から孫文(孫中山)を支持し、後に国民政府(国民革命軍)に加わった。字は伯常。 == 事跡 ==
=== 清末民初の活動 === 清末に湖北武昌陸軍第三中学に入学し、このときに中国同盟会に加入した。1911年(宣統3年)10月に武昌起義(辛亥革命)が勃発すると、張篤倫は上海に赴き陳其美の下で上海警衛司令に任ぜられている。11月、武漢に戻り、黄興から鄂軍総司令部参謀に任ぜられた。中華民国成立後、張は鄂軍第5師副官長に任ぜられる。1915年(民国4年)、湖北出身の晋北鎮守使孔庚から参謀として起用された。このときに夏斗寅と親交を結んでいる。 翌年、張篤倫は一時山西に赴き山西軍に加わったが、まもなく帰郷し鄂軍第1師参謀長に任ぜられている。1917年(民国6年)、石星川が孫文(孫中山)の護法運動に呼応して組織した湖北靖国軍第1軍に張と夏斗寅も加入、張は参謀長となっている。まもなく北京政府の湖北督軍王占元が派遣してきた呉光新に石の軍は殲滅されてしまい、張と夏は岳州(湖南省)まで退却している。新たに擁立した南方政府派の鄂軍総司令李書城の下で張は第1梯団団長、夏は第2梯団団長にそれぞれ任ぜられた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「張篤倫」の詳細全文を読む
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