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張 蔭梧(ちょう いんご)は中華民国の軍人・政治家・教育者。山西派の軍人で、後に国民革命軍に加わる。日中戦争では河北省方面で転戦した。字は桐軒。 == 事跡 == === 山西派での昇進 === 黒竜江省陸軍小学、陸軍第一予備学校を卒業後、1916年(民国5年)8月に保定陸軍軍官学校第5期生として入学した。1918年(民国7年)9月に卒業し、山西省で学兵団連長として任に就く。以後、山西督軍公署参謀、太原国民師範学校軍訓副主任、山西陸軍第10団団長などを歴任した。1926年(民国15年)夏、国民軍との戦いで負傷し、一時辞職して郷里に戻っている。 その後、傷の癒えた張蔭梧は教導団主軍官として復帰した。山西都督閻錫山が国民革命軍に易幟した後の1927年(民国16年)9月、張は国民革命軍北方軍第7軍副軍長兼左路軍前敵総指揮に抜擢され、北伐に参加している。翌年3月、国民政府軍事委員会委員も兼任し、6月には北平警備司令となった。10月、第42師師長となり、1929年(民国18年)6月には北平特別市市長に起用された(1931年2月まで在任)。 1930年(民国19年)の中原大戦に際しては、反蒋介石側についた閻錫山配下として張蔭梧は第4路総指揮を務めたが、反蒋軍敗北とともに閻に従い張も下野した。その後、張は帰郷し、北平で四存中学を創設し自ら校長となっている。1932年(民国21年)2月、山西省政府に復帰し、晋綏軍事整理委員会常務委員兼軍官教導団団長に任命された。1934年(民国23年)11月、河北省政府委員に任ぜられ、県政建設研究院院長も兼任した(1935年12月まで在任)。1936年(民国25年)1月、陸軍中将の位を授与されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「張蔭梧」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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