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張 邦昌(ちょう ほうしょう、元豊4年(1081年) - 建炎元年(1127年))は、北宋末期・南宋初期の政治家。字は子能。永静軍東光(現在の河北省東光県)の人。一時、金が建てた傀儡国家の皇帝に擬せられた。 == 経歴 == 進士出身で、欽宗の時代に宰相職である少宰(尚書右僕射)、ついで大宰(尚書右僕射)に任ぜられた。金軍が首都開封に迫った時に康王趙構(後の南宋の高宗)とともに金軍の人質となり和解条件を整えて帰還するが、主戦派の弾劾を受けて左遷される。その後、戦いが再開されて結局開封は占領され、太上皇徽宗と欽宗をはじめ、数多くの皇族や官僚たちが連行された(靖康の変)。 金軍は傀儡として異姓の賢人を立てて旧北宋支配地域を統治させる方針を立て、張邦昌を「大楚皇帝」に擁立した。しかし金軍が撤収すると、張邦昌は帝位を放棄し、哲宗の皇后で廃位されていた孟氏(元祐皇后)を迎えて尊奉し、自身を太宰として事務を管掌した。そして、孟氏による垂簾聴政の形式を整え、その指名の形で康王趙構〔靖康元年(1126年)、趙構は自身を使節(実は人質)に送るよう兄の欽宗に申し出た。同年冬、再び出使した。結果的に靖康の変の際、趙構は開封を離れていたためかえって難を逃れた。〕を皇帝に擁立させた。このため、楚は32日で滅亡した。 その後、張邦昌は高宗のいる応天府(商丘)に出頭した。高宗は張邦昌を許すつもりで太保・同安郡王としたが、宰相の李綱が張邦昌の処刑を強硬に主張したため、やむを得ず張邦昌を自殺させた。 張邦昌の逃亡の後、金は代わって劉予を擁立し、同じく漢人を皇帝に戴く傀儡国家・を建て、引き続き旧北宋支配地域の間接統治を試みていくことになる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「張邦昌」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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