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張 雲逸(ちょう うんいつ)は、中華人民共和国の軍人。中国人民解放軍の大将。本名は張雲鎰、別名張勝之。 == 略歴 == 1908年、広東陸軍小学堂入校。1909年、中国同盟会加入。1911年4月、広州において黄花崗起義に参加。同年10月の辛亥革命中、両広総督府の攻撃に参加した。1912年、広東陸軍速成学校に入校。1914年、卒業後、同盟会南方支部により軍閥部隊に派遣され、粤軍の排(小隊)長、連(中隊)長、営(大隊)長を務めつつ、反袁世凱闘争に従事した。1915年、護国戦争に参加。1923年、広東省揭陽県県長に任命。1924年、粤軍許崇智の部隊の旅長を務める。1926年、国民革命軍第4軍第25師参謀長として北伐戦争に参加。同年10月、武漢において中国共産党に入党。1927年の革命失敗後、第25師主力が南昌起義に参加するのを秘密裏に支援した。同年12月、広州、香港等において、中共の秘密工作に従事。 1929年7月、中共中央により南寧に派遣され、広西軍官教導総隊副総隊長、警備第4大隊大隊長、南寧警備司令を務めつつ、俞作柏、李明瑞と関係を確立した。同年12月11日、鄧小平等と共に百色起義を指揮し、中国工農紅軍第7軍を創設、軍長として桂系軍閥の反撃を撃退し、右江蘇区を確立した。1930年4月、紅7軍主力を率いて黔辺を転戦し、貴州榕江城を占領した。同年6月、百色、奉議、恩隆等の県を攻略し、10月、鄧小平、李明瑞と共に右江蘇区を離れ、桂・黔・湘地区を転戦した。 1931年1月、広西で召集された紅7軍前線委員会会議上において、鄧小平等と共に都市攻撃を停止し、湘粤で遊撃戦を展開することを決定した。2月の楽昌河渡河時、敵に分断されたが、本部と第58団を率いて封鎖線を突破した。3月中旬、湘贛蘇区に進入して湘東独立師と会合し、河西臨時総指揮部を創設し、総指揮として永陽鎮等の戦闘を行った。4月、永新において紅7軍主力と会合し、河西総指揮部参謀長となる。事後、李明瑞と共に安福、茶陵、安仁等の県を攻略し、中央ソビエト区の第二次反「囲剿」を支援した。同年冬、中央革命軍事委員会副参謀長兼作戦局局長に任命。 1933年、粤贛軍区司令員、後に紅軍総司令部、紅一方面軍司令部副参謀長兼作戦部部長となり、「戦闘指揮研究事項」等の指導文書を発表した。1934年10月、中央革命軍事委員会副参謀長兼作戦局局長として長征に参加。陕北到達後、紅一方面軍参謀長を兼任。1936年12月、中央革命軍事委員会委員に任命。1936年、両広事変後、中共中央により広州、香港、南京、武漢、福州、桂林等に派遣され、国民党上層部中に抗日民族統一戦線を樹立する工作を行った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「張雲逸」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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