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張 静江(ちょう せいこう)は中華民国の政治家、実業家。名は人傑だが、一般に字である静江で知られる。中国同盟会以来の革命派人士で、後に中国国民党、国民政府の政治家となった。また、浙江財閥の指導者の1人としても知られる。譜名は増澄。 == 事跡 == === 革命派への財政支援 === 浙江省湖州南潯の富裕な資産家の家庭に生まれる。1902年(光緒28年)、駐仏公使孫宝琦に随従してパリに赴任し、公使館商務随員に任命された。翌年に帰国して資金を収集し、フランスへ再び戻り通運会社を設立した。事業は成功し、ロンドンやニューヨークでも支店を設立している。 また、海外に在る間に様々な新思想に接し、次第に反清、無政府主義への傾倒を強めた。後に、呉敬恒(呉稚暉)・李石曽と共にパリで世界社を設立している。『新世紀周報』、『世界』(美術画報)、『新世紀叢書』などを出版して、無政府主義の宣伝を行っている。 光緒32年(1906年)、張静江は旅行中に偶然孫文(孫中山)と出会って意気投合する。以後、孫文の革命活動について資金面での援護に努めた。張からの送金は、中国同盟会にとって貴重な資金源となった。張自身も同年に帰国する途中のシンガポールで同盟会に加入している。 辛亥革命の際にも、張静江は、革命派のための資金的支援・兵器調達等で活躍した。孫文が臨時大総統となると、張は財政部総長に招請されたが、これを固辞している。1913年(民国2年)の二次革命(第二革命)では、陳其美らの蜂起を支援した。しかし敗北に終わり、日本へ亡命した。亡命後も孫文を支援し、中華革命党が組織されると財政部長となった。 その後も、孫文らの革命活動を財政面で支援し続けている。中国国民党の成立と共に中央執行委員に選出され、後には中央監察委員にも選ばれた。これらの業績により、国民党の人士からは「革命聖人」との名声を獲得し、孫文からも大いに感謝されている。ただ、張自身としては、孫文の三大政策には反対であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「張静江」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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