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彦山 光三(ひこやま みつぞう、1893年11月14日-1965年3月9日)は、日本のジャーナリスト、相撲評論家である。大日本相撲協会(現在の日本相撲協会)の嘱託・私設顧問として戦後の相撲界の発展に尽くした。 == 来歴・人物 == 静岡県清水市(現・静岡市清水区)出身。早稲田大学を中退後、地元で代用教員を務め、さらに1919年に雑誌『日本魂』の記者として帝国興信所(現・帝国データバンク)に入社した。当時の同僚には作家の山本周五郎(1924~1928年勤務)がいる。 帝国興信所初代所長の後藤武夫は国技相撲に傾倒し、大和錦、十三錦、一渡など力士のタニマチとしても相撲界を支援していた。そのため『日本魂』は「国技相撲道は即武士道であり日本魂である」との立場をとり、相撲を取り上げることが多かった。 こうした中で彦山は『日本魂』の相撲分野担当として編集に携わり、相撲の歴史や教育的意義、普及・発展の必要性を説いた。一方で1930年5月には単行本『相撲道宝鑑』を著し、「天覧編」「指針編」「奨道編」「史伝編」「戦績編」「芸談編」「読物編」と多角的な視点で相撲を論じ、評論活動を本格的にスタートさせた。1934年6月に帝国興信所を退社。前年の2月に後藤が他界していたこともあり、退社3ヵ月後には『日本魂』が廃刊となっている。その後、大日本相撲協会出版部嘱託となり機関誌『相撲』の編集に携わった。戦時中の国粋主義的な風潮の中、『相撲道綜鑑』『相撲美開眼』などを執筆した。 戦後は1948年に相撲文化研究所を設立、所長に就任。1950年には読売新聞運動部嘱託となる。その他のメディアにも多く相撲評論を寄稿、特に横綱史の研究や八百長排撃などを力説した。また部屋別総当たり制や行司部屋の独立などの改革案を協会に提案するなど、角界の元老として大相撲発展に力を尽くした。 1965年3月9日19時45分、東京都世田谷区上北沢の自宅で脳出血のため死去。享年71。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「彦山光三」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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