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(ほう よう、178年? - 214年? または、179年? - 215年? )は、中国後漢末期の政治家。字は永年(えいねん)。益州広漢郡の人。''(ほう よう、178年? - 214年? または、179年? - 215年? )は、中国後漢末期の政治家。字は永年(えいねん)。益州広漢郡の人。 == 生涯 == 劉璋・劉備に仕えた。「身長8尺、甚だ容貌魁偉であり、性格は驕慢、人をぞんざいに扱うことが多かった」とある。 『三国志』蜀書巻十に伝がある(同じ巻十に伝のある劉封・廖立・李厳・劉琰・魏延・楊儀は、「上役に対する不忠の行動があったか、若しくは上役に煙たがられた事を理由に死んだ」者たちである)。 同郷の秦宓が許靖に推挙したため、は益州の書佐になった。しかし驕慢だったために讒言を受け、髠鉗(こんけん、断髪され首枷をされること)の刑に処され労役囚とされた。 後に、劉備の陣営にいた龐統の所に無断で訪れて語り合い、龐統に才能を認められ、法正が前から彭羕をよく知っていたので、劉備の下へ連れて行かれた。劉備がに軍事について諸将に指示を与えさせると、彼は自分の仕事を見事にこなしたので重用された。劉璋を降した後、益州の治中従事となった。 だが、は思い上がり傲慢に振舞った。諸葛亮が劉備に「は野心が大きいので、大人しく仕えさせておくのは難しいでしょう」と内密に進言したため、劉備は行状を観察した上で次第に疎んずるようになり、江陽太守として左遷した。 この左遷への不満から、「あの老革〔揚雄の『方言』にいう。悈・鰓・乾・都・耇・革は老の意味である。郭璞の注にいう。みな老人の皮や毛がかさかさになり張りを失った状態をいう言葉である。臣(わたくし)裴松之は考える。皮から毛を取り去ったものを革という。昔は革をもって兵(武器)を作った。だから兵革という言葉があるのであり、革は兵と同義である。彭羕が劉備を罵倒して老革といったのは、ちょうど老兵といったようなものである。〕(おいぼれ、老兵の意で劉備を指す)は耄碌して話にならない」「卿(馬超)が外(軍事)を、我が内(内政)を握るなら、天下に不足はないのだが…」と劉備への謀反とも取れる誹謗を馬超に漏らした。馬超がこのことを即刻上奏すると、彭羕は逮捕されて係の役人に引き渡された。 彭羕は獄中より諸葛亮に手紙を送り、主君の我が子に与えられるような厚い恩愛(分子之厚)を賜りながら、慈父を裏切ったからには罪は百度の死に相当すると認めつつ、馬超に漏らした言葉については弁明している。 その後、処刑された。享年37。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「彭ヨウ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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