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彭越 : ウィキペディア日本語版
彭越[ほうえつ]
彭越(ほうえつ ? - 紀元前196年)は、中国末期から楚漢戦争期の武将。は仲。秦末期の戦乱の中で盗賊として活躍し、劉邦の幕下に入ってからは後方撹乱などに戦功を挙げた。
==楚漢戦争==
昌邑(現在の山東省巨野県)の人で、若い頃は鉅野の沼沢(後の梁山泊との説がある)で漁師をやりながら盗賊業を行っていた。秦の悪政により世が乱れてくると幾度も衆に推されて、首領となる。その際に「首領になるからには明朝の出陣の日に一番遅れた者は処刑する」と言い聞かせた。だが、彼らは烏合の衆であり明朝になっても集まらず、午後になって集結する者もいたほどであった。彭越は明言通りに一番遅れた衆のひとりを殺し、これにより衆は彭越の命令を聞くようになった。
その頃、世の中は陳勝項梁たちの蜂起で天下騒乱と成り、楚の懐王の命により、劉邦が秦の首都・咸陽へ向けて進軍する途中での領内にある昌邑を攻め、彭越はこれに協力して昌邑を攻め落とした。
その後、秦は項羽によって滅ぼされ、項羽は居城に戻って対秦戦争で戦功のあった者に対する領土分配を行ったが、彭越には何も与えられず、これに怒った彭越は同じく不満を持っていた旧の王族の田栄たちと結び、彭越は田栄より将軍の印を受けて、(旧の地。開封周辺。)にて兵を起こした。項羽の分配は非常に不公平なものであったので、彭越のみならず全国で項羽への反乱が起き、その中でも漢中へ封ぜられた劉邦は関中へ攻め上がり、旧秦の領土を全て手に入れ、項羽と対立するようになった。
彭越は梁で暴れ周り、都市をいくつも落とした。これを見た項羽は武将の蕭公角に大軍を付けて討伐に向かわせるが、彭越はこれを撃退した。
その後、劉邦が東へ出てきて、旧魏の王族の魏豹を連れてきて魏王の位に就け、彭越をその宰相とした。劉邦は項羽の軍に敗れて逃亡したので、彭越も根拠地を離れて逃亡し、ゲリラ戦術に入った。常に一つところに留まらず、現れては項羽の楚軍の兵糧を焼いて回り、項羽がやってくると逃げると言うことを繰り返した。このため、項羽軍は食糧不足が続き、堪え性の無い項羽は度々彭越の討伐に戻るため、主敵である劉邦への対峙を続けられなかった。これにより劉邦は項羽の圧力を受け続けることなく、何度となく命拾いをすることになった。
劉邦と項羽の争いは佳境に入り、広武山で対峙したが、食料が切れたことで一旦和議してそれぞれの故郷へ帰ることにした。しかし劉邦は張良の献言により項羽の背後を襲い、それに先んじて彭越と韓信に対して共同して項羽を攻めるように言ってきたが、彭越も韓信もこれに従わなかった。劉邦がこれに対する褒美を何も約束しなかったからであり、自分は漢と楚が争っているからこそ価値があると分かっていたからである。
単独では項羽に敵し得ない劉邦軍は項羽軍に敗れ、窮した劉邦は韓信に対して莫大な恩賞の約束をし、彭越に対しても梁王にすると約束した。これで納得した彭越は戦場に向かい、彭越と韓信の援軍を得た劉邦は項羽を垓下に追い詰めて滅ぼした。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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