|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 信 : [まこと, しん] 1. (adv,n) truth 2. faith 3. fidelity 4. sincerity 5. trust 6. confidence 7. reliance 8. devotion ・ 可 : [か] 1. (n,n-suf) passable
彰信可汗(しょうしんかがん、拼音:Zhāngxìnkĕhàn、? - 839年)は、回鶻可汗国の第12代可汗〔資料によっては第11代。〕。可汗号はアイ・テングリデ・クト・ボルミシュ・アルプ・キュリュグ・ビルゲ・カガン(Ay täŋridä qut bolmiš alp külüg bilgä qaγan)〔「月天の聖霊より幸を授かりし勇猛にして誉れ高き賢明なるカガン」の意。〕といい、唐より彰信可汗の称号(美称)を加えられた。即位前の称号は胡特勒(こテギン)〔特勒(テギン、特勤、Tägin)とは、突厥や回紇における皇太子もしくは王子に与えられる称号。〕。 ==生涯== 大和6年(832年)、昭礼可汗がその配下に殺されると、従子の胡特勒が立って可汗となり、唐に使者を送ってこのことを報告した。明年(833年)、唐は左驍衛将軍の唐弘実を遣わして嗣澤王溶とともに節を持たせ、胡特勒を冊立して愛登里囉汨没蜜施合句録毘伽彰信可汗とした。 大和9年(835年)6月、太和公主の所に馬射女子7人、沙陀小児2人を献上した。 開成(836年 – 840年)の初め、回鶻宰相で安允合という者がおり、特勤(テギン)の柴革とともに彰信可汗簒奪を欲したが、彰信可汗に発覚し、柴革と安允合は殺された。 開成4年(839年)、宰相の掘羅勿(キュレビル、Küräbir)〔九姓回鶻の一姓。〕は彰信可汗が柴革と安允合を誅殺したことを怨み、沙陀族を招き寄せて彰信可汗を攻めたため、彰信可汗は自殺した。国人は㕎馺特勒〔「㕎」は「厂+盍」と書く。〕を立てて可汗とした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「彰信可汗」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|