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征韓論争 : ミニ英和和英辞書
征韓論争[ろんそう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ろん]
 【名詞】 1. (1) argument 2. discussion 3. dispute 4. controversy 5. discourse 6. debate 7. (2) theory 8. doctrine 9. (3) essay 10. treatise 1 1. comment
論争 : [ろんそう]
  1. (n,vs) controversy 2. dispute 

征韓論争 ( リダイレクト:征韓論 ) : ウィキペディア日本語版
征韓論[せいかんろん]

征韓論(せいかんろん)は、日本明治初期において、当時留守政府の首脳であった西郷隆盛板垣退助江藤新平後藤象二郎副島種臣らによってなされた、武力をもって朝鮮開国しようとする主張である(ただし、征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は出兵ではなく開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴く、むしろ「遣韓論」という説もある)〔毛利(1979)による。だが学会では主流とはされていない。「征」は本来「ゆく、旅立つ、伐(う)つ、上が下を伐つ、利益や儲けを取り上げる、税を取り立てる」などの字義。後の歴史の経緯から「征服」「侵略」「植民地化」に傾斜した意に捉えがちだが本来の字義は必ずしもそれのみではない。〕〔板垣(1992)、61頁〕。
西郷隆盛の死後、板垣退助らの自由民権運動の中で、板垣の推進する征韓論は西郷の主張として流布され、板垣ではなく西郷が征韓論の首魁として定着した。
== 名称 ==
日本書紀の神功皇后紀では高句麗・新羅・百済を「三韓」と呼び、国学思想においては朝鮮半島を下に見る思想があった。これに対して「朝鮮」は太古の伝説から取って李氏朝鮮が使っていた正式国号である。太古の栄光の国号を用いることは北周西夏など広く見られる現象である。そのため征韓派は好んで「征」を用いた。
安政五カ国条約の勅許の奏請にあたり、間部詮勝は「(13、4年ののちは)海外諸蛮此方之掌中ニ納候事、三韓掌握之往古ニ復ス」る状況を実現することができると朝廷を説得したとされる〔藤村(1970)、13頁〕。後年渋沢栄一は「韓国に対する私の考えは、三韓征伐とか朝鮮征伐とか征韓論とかに刺戟せられたものであろうが、兎に角朝鮮は独立せしめて置かねばならぬ、それは日本と同様の国であると考えていたのである」と日清戦争後の対露強硬路線に同調した経緯を述べた〔島田(1999)、11頁〕。
== 概要 ==
日本では江戸時代後期に、国学水戸学の一部や吉田松陰らの立場から、古代日本が朝鮮半島に支配権を持っていたと『古事記』・『日本書紀』に記述されていると唱えられており、こうしたことを論拠として朝鮮進出を唱え、尊王攘夷運動の政治的主張にも取り入れられた。幕末期には、松陰や勝海舟橋本左内の思想にその萌芽をみることができる。慶応2年(1866年)末には、広州の新聞に、日本人八戸順叔が「征韓論」の記事を寄稿し、清・朝鮮の疑念を招き、その後の日清・日朝関係が悪化した事件があった(八戸事件)。また朝鮮では国王の父の大院君が政を摂し、鎖国攘夷の策をとり、丙寅洋擾シャーマン号事件の勝利によって、意気おおいにあがっていた。
そのように日朝双方が強気になっている中で明治維新が起こり、日本は対馬藩を介して朝鮮に対して新政府発足の通告と国交を望む交渉を行うが、日本の外交文書が江戸時代の形式と異なることを理由に朝鮮側に拒否された〔日本が「皇」という文字を使う事は無礼だ、として朝鮮は受け取りを拒否した。それまでは将軍が「日本国大君」「日本国王」として朝鮮との外交を行っていた。〕。明治3年1870年)2月、明治政府は佐田白茅森山茂を派遣したが、佐田は朝鮮の状況に憤慨し、帰国後に征韓を建白した〔「佐田白茅外二人帰朝後見込建白」(『公文録・明治八年・第三百五巻・朝鮮講信録(一―附交際書類)』、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A01100124300、国立公文書館)9頁に次のように記されている:
「朝鮮知守不知攻、知己不知彼、其人深沈狡獰固陋傲頑

覺之不覺、激之不激、故断然不以兵力涖焉、則不爲我用

也、況朝鮮蔑視皇國、謂文字有不遜、以興耻辱於

皇國、君辱臣死、實不戴天之冦也、必不可不伐之、不伐之



皇威不立也、非臣子也」。
すなわち、
「朝鮮は守るを知りて攻めるを知らず、己を知りて彼を知らず、其の人は深沈・狡獰・固陋・傲頑、

之を覺して覺らず、之を激して激せず、故に断然兵力を以って焉(いずく)んぞ涖(のぞ)まざれば、則ち我が用を爲(な)さざる也、

況や朝鮮は皇國を蔑視して、文字に不遜(ふそん)有りと謂(い)う、以って耻辱を皇國に與(あた)う、

君を辱らるれば臣は死す、實(じつ)に不戴天の冦(あだ)なり、必ず之を伐たざるべからず、之を伐たざれば

則ち皇威は立たざる也、臣子に非ざる也」。
〕。9月には、外務権少丞吉岡弘毅釜山に遣り、明治5年1872年)1月には、対馬旧藩主外務大丞に任じ、9月には、外務大丞花房義質を派した。朝鮮は頑としてこれに応じることなく、明治6年になってからは排日の風がますます強まり、4月、5月には、釜山において官憲の先導によるボイコットなども行なわれた。ここに、日本国内において征韓論が沸騰した。
また政権を握った大院君は「日本夷狄に化す、禽獣と何ぞ別たん、我が国人にして日本人に交わるものは死刑に処せん。」という布告を出した。当時外交官として釜山に居た多田、森山等はこの乱暴な布告をみて直ぐ様日本に帰国し、事の次第を政府に報告した。〔伊藤博文言行録 国立国会図書館 近代デジタルライブラリー コマ番号:34〕〔維新英雄言行録 国立国会図書館 近代デジタルライブラリー コマ番号:126〕
明治6年(1873年)6月森山帰国後の閣議であらためて対朝鮮外交問題が取り上げられた。参議である板垣退助は閣議において居留民保護を理由に派兵を主張し、西郷隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張した。後藤象二郎、江藤新平らもこれに賛成した。いったんは、同年8月に明治政府は西郷隆盛を使節として派遣することを決定するが、9月に帰国した岩倉使節団岩倉具視木戸孝允大久保利通らは時期尚早としてこれに反対、10月には収拾に窮した太政大臣三条は病に倒れた。最終的には太政大臣代理となった岩倉の意見が明治天皇に容れられ、遣韓中止が決定された。その結果、西郷や板垣らの征韓派は一斉に下野(征韓論政変または明治六年政変)し、明治7年(1874年)の佐賀の乱から明治10年(1877年)の西南戦争に至る不平士族の乱自由民権運動の起点となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「征韓論」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Seikanron 」があります。




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