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後南朝(ごなんちょう)とは、1392年(明徳3年)の南北朝合一後、南朝の再建を図った南朝の皇統の子孫や遺臣による南朝復興運動とそれによって樹立された政権、皇室の総称である。 この名称は江戸時代末期に儒学者斎藤拙堂によって付けられたもので、それまで名称は特に決まっていなかった。また後南朝という呼び方も戦後広まったもので戦前までは定着してはいなかった。 == 概要 == 南北朝合一時の約束(明徳の和約)では天皇は北朝系(持明院統)と南朝系(大覚寺統)から交代で出す(迭立)ことになっていたが、1412年(応永19年)に北朝系の後小松天皇の次代として後小松上皇の皇子である称光天皇が即位したことをきっかけに、北朝系によって天皇位が独占されるようになったのに反抗して起こった。 1414年(応永21年)、4年前に京都を出奔して吉野に潜行していた南朝最後の天皇後亀山上皇とその皇子小倉宮を支持して伊勢国司の北畠満雅が挙兵したが、室町幕府の討伐を受け和解、上皇は2年後に京に帰った。 後亀山上皇の崩御から4年後の1428年(正長元年)、嗣子のなかった称光天皇が崩御したために北朝の嫡流は断絶した。後小松上皇が北朝の傍流(ただし持明院統としては本来の嫡流)である伏見宮家から彦仁王(後花園天皇)を後継者に選ぼうとしたことをきっかけに、北朝は皇統断絶して皇位継承権を失ったと考える南朝側は激しく反発する。北畠満雅は再び小倉宮聖承(後亀山の皇子小倉宮恒敦の王子)を担いで伊勢で挙兵、幕府軍と戦って敗死した。 この事件をはじめとして、応仁の乱に至るまで、南朝の子孫は反幕勢力に担がれて断続的に活動を続けた。1443年(嘉吉3年)には、南朝復興を唱える日野家傍流の日野有光らの勢力が後花園天皇の暗殺を企てて御所に乱入(暗殺は未遂)、三種の神器の剣と神璽を奪い、南朝皇族の通蔵主・金蔵主兄弟(後亀山の弟の孫)を担いで比叡山に逃れる“禁闕の変”を起こした。幕府軍によって変の首謀者たちが討たれ、剣が奪い返された後も神璽は後南朝に持ち去られたままであったが、1457年(長禄元年)に至って、1441年(嘉吉元年)の嘉吉の乱で取り潰された赤松氏の復興を願う赤松家遺臣の石見太郎、丹生屋帯刀、上月満吉らが、大和・紀伊国境付近の北山(奈良県吉野郡上北山村か)あるいは三之公(同郡川上村)に本拠を置いていた後南朝に、「臣従する」と偽って後南朝勢力を襲い、南朝の末裔という自天王(尊秀王)・忠義王兄弟を殺害して神璽を奪い返した(長禄の変)。両王子は後世の系図では小倉宮の末裔とされているが、同時代史料に証拠はない。 後南朝は次第に勢力を失い、文明3年(1471年)、応仁の乱において小倉宮の末裔(『大乗院寺社雑事記』には小倉宮の子孫との記述あり)と称する岡崎前門主という人物の息子が、山名宗全により洛中の西陣に迎えられた(これを“西陣の南帝”と呼ぶ)との記録を最後に、歴史上にあらわれなくなった。ただし、『後深心院関白記』には長慶天皇の末裔、八寿王が信貴山に昭懐南朝を開いたという「落人伝説」が記されているが定かではない。しかしその後も民間で後南朝の伝説や伝承は残り、貴種流離譚の一つとして山の民に利用された可能性を瀧川政次郎は指摘している。太平洋戦争後の開放的気分の中で「熊沢天皇」こと熊沢寛道など、自らを正統な天皇の継承者と称する自称天皇たちが現れたとき、その多くは、1911年(明治44年)に明治天皇の裁断によって南朝が正統とされたことを受けて、後南朝の子孫と主張していた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「後南朝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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