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後嵯峨天皇(ごさがてんのう、承久2年2月26日(1220年4月1日) - 文永9年2月17日(1272年3月17日〔ユリウス暦での換算日。グレゴリオ暦では3月24日となる。なお、宮内庁は2012年9月、明治の改暦の際に命日の換算を間違え、約140年間に渡り1日後の3月25日に祭祀を行っており、2012年春から正しい日に直したことを『書陵部紀要』に発表した。聖武天皇も同様に計算違いで1日命日を間違えていたという。聖武天皇の命日、1日間違えた 宮内庁 (日本経済新聞、2012年9月26日)〕))は、鎌倉時代の第88代天皇(在位:仁治3年1月20日(1242年2月21日) - 寛元4年1月29日(1246年2月16日))。諱は邦仁(くにひと)。 土御門天皇の皇子。母は、源通宗の娘、通子。 == 略歴 == 承久の乱の前年の誕生であり、土御門上皇が土佐に流された後は、母方の大叔父である中院通方・土御門定通の許で育った。だが、土御門家一門の没落に伴って苦しい生活を送り、20歳を過ぎても出家も元服もままならないという中途半端な状態に置かれていた。 ところが仁治3年(1242年)に四条天皇が12歳で急死したため、皇位継承の問題が持ち上がった。公卿や幕府などの思惑が絡んだため、問題は難航した。九条道家ら有力な公卿たちは、順徳上皇の皇子である忠成王(仲恭天皇の異母弟)を擁立しようとした。しかし執権北条泰時および現地六波羅探題の北条重時は、承久の乱の関係者の順徳上皇の皇子の擁立には反対の立場を示し、中立的立場であった土御門上皇の皇子の邦仁王を擁立しようとし、鶴岡八幡宮の御託宣があったとして邦仁王を擁立した(実は土御門定通の側室は重時の同母妹(竹殿)であったため、邦仁王と北条氏とは縁戚関係にあったという特殊な事情もあった)。この駆け引きのため、11日間の空位期間が発生した。また、当時の公家の日記である『平戸記』・『民経記』が邦仁王擁立を非難する記述(ともに仁治3年正月19日条)を残すなど、当時の公家社会にも衝撃を与えた。 即位した天皇は宮廷の実力者である西園寺家と婚姻関係を結ぶことで自らの立場の安定化を図り、寛元4年(1246年)に在位4年で皇子の久仁親王(後深草天皇)に譲位し、院政を開始。この年、政治的に対立関係にあった実力者・九条道家が失脚したこともあって、上皇の主導によって朝廷内の政務が行われることになった。以後、姉小路顕朝・中御門経任ら実務担当の中級貴族を側近に登用して院政が展開されていくことになる。正元元年(1259年)には後深草天皇に対し、後深草天皇の弟である恒仁親王(亀山天皇)への譲位を促した。 後嵯峨上皇の時代は、鎌倉幕府による朝廷掌握が進んだ時期であり、後嵯峨上皇による院政は、ほぼ幕府の統制下にあった。ただし、宝治元年(1247年)の宝治合戦直後には北条時頼以下幕府要人が「公家御事、殊可被奉尊敬由」(『吾妻鏡』宝治元年6月26日条)とする合意を行って、後嵯峨院政への全面的な協力を決定している。また、摂家将軍の代わりに宗尊親王を将軍とすることで合意する(宮将軍)など、後嵯峨院政と鎌倉幕府を掌握して執権政治を確立した北条氏との間での連携によって政治の安定が図られた時期でもあった。 文永5年(1268年)10月に出家して法皇となり、大覚寺に移る。同9年(1272年)2月、崩御。 後嵯峨上皇が、後深草上皇の皇子ではなく、亀山天皇の皇子である世仁親王(後の後宇多天皇)を皇太子にして、治天の君を定めずに崩御した事が、後の持明院統(後深草天皇の血統)と大覚寺統(亀山天皇の血統)の確執のきっかけとなり、それが南北朝時代、更には後南朝まで続く200年に渡る大乱の源となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「後嵯峨天皇」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Emperor Go-Saga 」があります。 スポンサード リンク
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