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後燕(こうえん、拼音:Hòu-yàn)は、中国の五胡十六国時代に存在した国。華北を統一した前秦が383年の淝水の戦いで東晋に大敗した後、前燕の将軍だった慕容垂によって建国された国(384年 - 407年)。中山(河北省定県)に都し、華北東部と遼西を領有した。 == 歴史 == === 建国期 === 後燕の始祖である慕容垂は前燕の皇族で、前燕の初代皇帝慕容皝の5男である〔三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P103〕。前燕が慕容垂の叔父慕容評の執政により乱れて衰退すると、東晋の桓温の攻撃を受けて連敗し、一時は皇帝慕容暐も龍城への還都を検討するまでになるが〔三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P76〕、慕容垂は燕軍を率いて東晋軍を撃破したので、一躍前燕で台頭するようになった。ところがこの功績を慕容評に嫉視されて謀殺を図られたため、前秦の苻堅の下に亡命し、泉州侯に叙爵され、前燕攻撃にも貢献した〔。383年の淝水の戦いで前秦軍が大敗すると、慕容垂は苻堅を保護して撤退した〔。この際、慕容垂は苻堅に河内方面の鎮撫を提言し、認められて同地に至るが、当時同地を支配していた苻堅の庶長子苻丕からは敬遠され、丁零の鎮定を命じられた〔三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P104〕。祖廟の拝謁を許されず不満を抱いた慕容垂は、苻丕の命令に従い丁零を従えて3万の兵力を擁するようになると、これを背景にして384年1月に燕王を自称し、燕元という独自の年号を建てて独立し、後燕を建国した〔。 ただし慕容垂本人は河北一帯を支配して勢力を確立するも、形式的にはなおも前秦の配下を称していた〔。家臣らがいくら進言しても皇帝に即位する事は拒否しており、これは甥の元皇帝であった慕容暐がまだ存命していた事と西燕との関係、また苻堅に対する恩義から遠慮していたといわれている〔。その後、慕容暐が384年12月に殺され、385年8月に苻堅が殺害されると、386年1月になって慕容垂は中山で皇帝を自称した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「後燕」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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