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後藤 庄三郎(ごとう しょうざぶろう)は、近世日本の金座の当主、すなわち御金改役に与えられた名称である。初代の後藤庄三郎光次に始まり、以後世襲制の家職となった。 == 元祖庄三郎 == 文禄2年(1593年)、橋本庄三郎は徳川家康と接見し、文禄4年(1595年)には彫金師の後藤徳乗の名代として江戸に下向した。出身は美濃国加納城主長井藤左衛門利氏の末裔ともされるが〔『御金改役後藤庄三郎由緒書』早稲田大学図書館所蔵大隈重信関係資料 〕、疑問視されている〔滝沢武雄『日本の貨幣の歴史』吉川弘文館、1996年〕。庄三郎の本姓は山崎との説もある〔小葉田淳『日本の貨幣』至文堂、1958年〕。庄三郎が京都の後藤家の職人として従事しているうちに徳乗に才覚を認められ、代理人に抜擢されたとされる〔。庄三郎は徳乗と家康に後藤庄三郎光次の名、五三桐紋の使用を許された。京都の後藤家は室町幕府以来の御用金匠であり、茶屋四郎次郎家、角倉了以家と共に京都の三長者と呼ばれた〔三上隆三『江戸の貨幣物語』東洋経済新報社、1996年〕。 当時、判金といえば大判のことであったが、家康は貨幣としての流通を前提とした一両小判の鋳造の構想があった。「武蔵壹兩光次(花押)」と墨書され、桐紋極印の打たれた武蔵墨書小判が現存し、これが庄三郎が江戸に下向した当時鋳造された関八州通用の領国貨幣であるとされている。 後藤庄三郎光次は文禄4年に江戸本町一丁目を拝領し、後藤屋敷を建て、屋敷内に小判の験極印を打つ後藤役所を設けた。この地は現在、日本橋本石町の日本銀行本店所在地にあたる〔滝沢武雄、西脇康『日本史小百科「貨幣」』東京堂出版、1999年〕。また慶長6年(1601年)には京都、慶長12年(1607年)には駿府、また元和7年(1621年)には佐渡に後藤役所出張所を設けて、極印打ちを開始した。さらに天領の金山、銀山を支配し、家康の財政、貿易などの顧問として権力を誇った。しかし二代庄三郎広世以降は金座支配のみにとどまった。また、庄三郎光次は文禄5年3月2日(1596年3月30日)付の後藤徳乗、後藤四郎兵衛、後藤長乗に提出した証文において、後藤の姓を名乗るのは光次自身一代限りと宣誓していたが、結果的に反故にされ、徳川家の権威を背景に京都の後藤宗家も黙認したとされる〔。 天領の金山から産出する公儀の吹金を預り、小判に鋳造する場合の手数料である分一金は、慶長期初期は吹高10両につき金目五分であったが、後に後藤手代の取り分は吹高1000両につき10両と定められた。 なお、金座の名称は直吹となった元禄改鋳以降に称されるようになったという説もあるが、延宝2年4月(1674年)の幕府の触書にも金座の名称が登場している〔。しかし京都では明暦、寛文のころ小判座と称していた。小判、一分判、二分判、二朱判、一朱判および五両判のような金貨には何れも「光次(花押)」の極印が打たれている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「後藤庄三郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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