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後藤宗印(ごとう そういん、天文14年(1545年)頃 - 寛永4年11月24日(1627年12月31日))は長崎の町年寄を務めた人物。キリシタンで朱印船貿易家でもあった。 佐賀・武雄の後藤貴明の一族で〔周防山口、あるいは京都出身とも言われる。〕、諱は貞之。当初は惣太郎という名で、後に庄左衛門と称する。宗印と号し、洗礼名は登明(Thome)といった〔トメ、またはトマスと読む。〕。元亀2年(1571年)、長崎に移住し、町人達の指導的な役割を担う頭人(とうにん)となる。文禄元年(1592年)、長崎代官寺沢広高により、頭人は町年寄と改称され、後藤宗印は引き続き町の統治に携わる。 町年寄を務める傍ら、ブルネイやシャム行きの朱印状を下付され、朱印船2隻を渡航させて海外貿易に従事した〔慶長11年(1606年)6月12日付でブルネイの、同12年12月24日にシャムへ渡航するための朱印状を下された。〕。 慶長5年(1600年)からキリシタン信仰手引書を金属活字の国字本で出版。同年3月上旬に『おらしょの飜訳』、同年6月上旬に『どちりな・きりしたん』、同16年(1611年)5月上旬に『ひですの経』を刊行〔印刷所は長崎の酒屋町に置かれた。〕。その社会的地位と財産でイエズス会を援助し、キリスト教徒の信心会「コンフラリア・デ・ミゼリコルディア(慈悲の信心会)」に加盟し慈善事業にも従事した。元和7年(1621年)3月26日付の長崎の教徒からローマ教皇に宛てた奉答文にも署名した。 寛永3年(1626年)6月、長崎住民に対する棄教命令が出され、長崎奉行の水野守信により町民の棄教が進められた際には、これを拒んで長崎の町を出た。宗印と同じ町年寄の町田宗賀ジョアンも信仰を棄てず、同じく長崎の町を去った。 寛永4年(1627年)、80余歳で病死。晧台寺に埋葬される。 出島町人の1人、後藤庄左衛門は宗印の子である。 == 脚注 == 〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「後藤宗印」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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