|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 後 : [のち] 1. (n,adj-no) afterwards 2. since then 3. in the future ・ 藤 : [ふじ] 【名詞】 1. wisteria ・ 生 : [せい, なま] 1. (adj-na,n,adj-no) (1) draft (beer) 2. draught 3. (2) raw 4. unprocessed
後藤 明生(ごとう めいせい、1932年4月4日 - 1999年8月2日)は日本の小説家。本名は明正。 == 来歴・人物 == 朝鮮咸鏡南道永興郡生まれ〔『現代小説クロニクル 1990~1994』日本文藝家協会編、講談社文芸文庫、2015年4月初版 280頁「作者紹介」より〕。生家は植民地朝鮮の元山市で商店を営んでいたが、彼が中学に入学した年に敗戦となり、日本に帰国した〔。その引き揚げの途中で父と祖母を失った。このことは作品の幾つかに散見される。旧制福岡県立朝倉中学校に転入し、早稲田大学第二文学部露文学科を卒業。大学在学中の1955年に『赤と黒の記録』で「文藝」の全国学生小説コンクールに入選。博報堂を経て平凡出版(現・マガジンハウス)に勤務。1962年に『関係』で文藝賞佳作。1967年、「文學界」に発表した『人間の病気』で芥川賞候補となる。1968年には『S温泉からの報告』と『私的生活』で候補となり、退社。1969年に『笑い地獄』で4度目の芥川賞候補となるが、受賞はしなかった。1977年に『夢かたり』で平林たい子文学賞、1981年に『吉野大夫』で谷崎潤一郎賞、1990年に『首塚の上のアドバルーン』で芸術選奨文部大臣賞を受賞した。 1977年より、古井由吉、坂上弘、高井有一とともに責任編集者として、平凡社から季刊雑誌『文体』を刊行した。当時、編集者だった村松友視の作品を「文体」に掲載させたのも彼である。1989年には、近畿大学文芸学部設立にあたって教授に就任し、文芸研究、文芸創作の指導にあたった〔。東京から大阪の通勤をしていたが、のちに大阪へ移住。1993年より同学部長を務めた。 「内向の世代」の作家の一人であり、事物や人間の関係性へ意識を向けた批評的でユーモラスな作品を著した。「グロテスク」という観点からニコライ・ゴーゴリとフランツ・カフカに影響を受けており、ゴーゴリの『外套』を起点とした『挾み撃ち』(1973年)は秋山駿、柄谷行人、蓮實重彦に評価され、文壇での地位を確立した。 『小説―いかに読み、いかに書くか』では自らの小説作法について、小説を書く理由は小説を読んだためだと説明している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「後藤明生」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|