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後藤 次男(ごとう つぐお、1924年1月15日 - )は、熊本県熊本市春日町出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)・監督。 愛称は「クマさん」。 == 来歴・人物 == 熊本県立工業中等学校在学中の、二塁手として春夏連続甲子園出場。には主将兼捕手として選抜中等学校野球大会に出場し、ベスト4まで勝ち進んだ。その後、法政大学に進み、4番打者として活躍する東京六大学リーグ通算32試合出場、121打数30安打、打率.248。 、法政大学OBの若林忠志監督が率いる大阪タイガースに入団し、ルーキーながら、二塁手や外野手として全試合に出場する。この年に記録した129安打は新人での球団史上最多安打であった。(この記録は1998年に坪井智哉が135安打を記録して塗り替えている。)翌から4年連続で3割を超える打率をマークし、主に3番打者として活躍し、「クマさん」の愛称で親しまれた。その間、には当時の日本記録である連続塁打25を打ち立てた。しかし、、シーズン中に鎖骨を骨折した影響で翌年は試合出場が出来ず、それ以降もレギュラーに復帰できずに限りで現役を引退した。 吉田義男によると、後藤は36インチ(91.4cm)のバットを使用しており、藤村富美男が「物干し竿」と呼ばれた長尺バットを使うまでは球界一長いバットであったという。その後藤でも「物干し竿」はうまく振り抜けなかったと吉田は記している(吉田義男『阪神タイガース』新潮新書、2003年)。 守備に関しては投手と遊撃手以外の7ポジションを経験しており、阪神では藤村富美男の8ポジション(捕手は未経験)に次いで多い。 引退後は一軍打撃コーチ()、二軍監督()などを経て、日本経済新聞評論家と日本短波放送・ラジオ関西解説者( - )を務める。からには一軍打撃コーチ、ヘッドコーチ、とには監督を務めた(69年は打撃コーチも兼任)。二度とも大物監督(藤本定義、吉田義男)退任の後を受けて就任したもので、本来の力を発揮するには至らなかった。特に、1978年は球団史上初の最下位に沈んだ。その経緯から「つなぎの後藤」と言われた。阪神監督退任後、 - と - 1990年代半ばあたりまで、サンテレビで解説者を務めた。 打撃コーチ時代には藤本勝巳・遠井吾郎の開花に一役買ったほか、藤田平を育てた。 お世辞にもきれいといえない自転車に乗って甲子園球場に出勤していた。江夏豊が「監督があんなのに乗っていたらオレらが恥ずかしい」というと「自転車で飯食っているわけじゃない」と意に介さなかった。 監督最終年となった1978年の春季キャンプで、記者陣からキャッチフレーズを聞かれ「みんな仲良くボチボチと」と答えた。また、チームのスローガンを問われた際は「お祭り野球」と答えた。 現在は、妻に先立たれたこともあり、西宮市内の自宅で一人暮らし。外食が中心で、週の半分は麻雀に興じているとの事(2008年5月28日付日刊スポーツ大阪版で本人がコメントを寄せている)。 8月24日、京セラドーム大阪で行われた阪神VS広島15回戦の始球式に登場。当日は「オールドユニフォームシリーズ」の一環として、阪神ナインと同様に大阪タイガース時代の黒色の復刻ユニフォームを着用して登板した。始球式後「60何年ぶりだから懐かしいね」〔【阪神】86歳後藤次男氏が復刻ユニ始球式 - 日刊スポーツ、2010年8月24日〕と感慨深げに話した。またこの日、サンテレビで放送された同試合の中継にゲスト解説として久々に出演した〔この試合はGAORAでも同時放送されたほか、スカイ・A sports+でも深夜に録画で放送された。〕。また8月1日にも甲子園90周年記念としてサンテレビで放送された同試合の中継にゲスト解説として出演。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「後藤次男」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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