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後鳥羽天皇(ごとばてんのう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての第82代天皇(在位:寿永2年8月20日(1183年9月8日) - 建久9年1月11日(1198年2月18日))。諱は尊成(たかひら・たかなり)。 高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子(七条院)。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。 == 経歴 == === 「神器なき即位」 === 寿永2年(1183年)7月25日、木曾義仲の軍が京都に迫ると、平家は安徳天皇と神鏡剣璽を奉じて西国に逃れた。これに従わなかった後白河法皇と公卿の間では平家追討を行うべきか、それとも平和的な交渉によって天皇と神鏡剣璽を帰還させるかで意見が分かれた。この過程で義仲や源頼朝への恩賞問題や政務の停滞を解消するために安徳天皇に代わる「新主践祚」問題が浮上していた。8月に入ると、後白河法皇は神器無き新帝践祚と安徳天皇に期待を賭けるかを卜占に託した。結果は後者であったが、既に平氏討伐のために新主践祚の意思を固めていた法皇は再度占わせて「吉凶半分」の結果を漸く得たという。法皇は九条兼実にこの答えをもって勅問した。兼実はこうした決断の下せない法皇の姿勢に不満を示したが、天子の位は一日たりとも欠くことができないとする立場から「新主践祚」に賛同し、継体天皇は即位以前に既に天皇と称し、その後剣璽を受けたとする先例がある(「継体天皇先例説」、ただし『日本書紀』にはこうした記述はなく、兼実の誤認と考えられている)と勅答している(『玉葉』寿永2年8月6日条)。10日には法皇が改めて左右内大臣らに意見を求め、更に博士たちに勘文を求めた。そのうちの藤原俊経が出した勘文が『伊呂波字類抄』「璽」の項に用例として残されており、「神若為レ神其宝蓋帰(神器は神なので(正当な持主のもとに)必ず帰る)」と述べて、神器無き新帝践祚を肯定する内容となっている。新帝の候補者として義仲は北陸宮を推挙したが、後白河法皇は安徳天皇の異母弟である4歳の尊成親王を即位させる事に決めた。丹後局の進言があったという。8月20日、後鳥羽天皇は太上天皇(後白河法皇)の院宣を受ける形で践祚し、その儀式は剣璽関係を除けば譲位の例に倣って実施された。即位式も元暦元年(1184年)7月28日に、同様に神器のないままに実施された。 安徳天皇が退位しないまま後鳥羽天皇が即位したため寿永2年(1183年)から平家滅亡の文治元年(1185年)まで在位期間が2年間重複している。壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した際、神器のうち宝剣だけは海中に沈んだまま遂に回収されることが無かった。文治3年(1187年)9月27日、佐伯景弘の宝剣探索失敗の報告を受けて捜索は事実上断念された。以後も建久元年(1190年)1月3日に行われた天皇の元服の儀なども神器が揃わないまま行われた。承元4年(1210年)の順徳天皇践祚に際して、既に上皇になっていた後鳥羽天皇は奇しくも三種の神器が京都から持ち出される前月に伊勢神宮から後白河法皇に献上された剣を宝剣とみなすこととした。だが、後鳥羽天皇はその2年後の建暦2年(1212年)になって検非違使であった藤原秀能を西国に派遣して宝剣探索にあたらせている。 伝統が重視される宮廷社会において、皇位の象徴である三種の神器が揃わないまま治世を過ごした後鳥羽天皇にとって、このことは一種の「コンプレックス」であり続けた〔丸谷才一は『日本詩人選10 後鳥羽院』(筑摩書院、1973年)において、宝剣喪失が後鳥羽院の幼時からの「心の傷」であり、そこに由来する屈辱感と自己嫌悪がその行動原理に反映されていると説く。〕。 また、後鳥羽天皇の治世を批判する際に神器が揃っていないことと天皇の不徳が結び付けられる場合があった〔例えば、藤原定家は後鳥羽上皇と順徳天皇の度を越した蹴鞠好きを批判した際に「百王八十余代、神剣没海、卅廻于茲。事理可然」(『明月記』建保元年4月29日条)と神器の不在に原因を求め、近代においても武士の台頭の原因として後鳥羽天皇が「虚器」を擁していたことに求める意見があった(池田晃淵「承久の乱の起因に就て」『史学雑誌』第7巻第2号、1896年)。〕。 後鳥羽天皇は、一連の「コンプレックス」を克服するために強力な王権の存在を内外に示す必要があり、それが内外に対する強硬的な政治姿勢、ひいては承久の乱の遠因になったとする見方もある〔谷、2010、P76-81。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「後鳥羽天皇」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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