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徐渭(じょ い、Xu Wei、正徳16年(1521年) - 万暦21年(1593年))は、中国明代の文人。書・画・詩・詞・戯曲・散文など多様なジャンルで天才性を発揮。その作風は後世に大きな影響を与えた。しかし、その一方で精神を病み、妻を殺害するなど破滅的で不遇な生涯を送った。 諱は渭。字をはじめ文清、のちに文長と改めた。天地・青藤・田水月・天池漱生・天池山人・海柳仏・山陰布衣など多くの雅号・室号を持つ。浙江省山陰県(現在の紹興市柯橋区)の生まれ。 ==略伝== 徐渭の父徐鏓(じょそう)は四川夔州府(きしゅうふ)の知事をつとめた。徐渭はこの父の召使いとの間に生まれた庶子であった。正妻の子である二人の兄徐淮(じょわい)と徐潞(じょろ)がいたが、徐渭が生まれたときは既にこの正妻は亡くなっていた。生後百日目で父が病死。後妻だった苗氏が嫡母となって徐渭を育てた。 6歳からエリート教育を受け、経学をはじめ八股文・古琴・琴曲・剣術などを学んだ。14歳のときに嫡母が没し精神的な支柱を失う。20歳のときにようやく童試に合格し秀才となる。その後20年の間に8度、郷試に臨むも及第に至ることはなかったが、その間に多くの師友・学友を得て郷里では「越中十子」と称されたという。この中には画家の陳鶴や泰州知事にのぼった朱公節などがいる。 20代はじめころ潘氏の婿となり長男徐枚をもうけた。25歳のときに兄徐淮が急死。すぐのち19歳の若妻が亡くなるという不幸が重なる。科挙に受からず役人になることはできなかったため、やむなく家塾を営んだが生活は貧窮した。 友人を頼って各地を転々とするうち、32歳のとき紹興に侵入した倭寇の討伐軍に剣術の師である彭應時〔1553年、王直の倭寇戦で戦死。徐渭はその死を悼み「彭應時小伝」を書いた。〕や友人呂光升〔正賓。越中十子のひとり。倭寇を討伐したとき多数の日本刀を入手。一本を徐渭に贈る。〕らと参加。戦果を挙げたことで胡宗憲など高級官僚から幕客(私設秘書)として迎えられた。この頃、名将として名高い戚継光や兪大猷に彼らを讃える詩を贈っている。胡宗憲は徐渭の文才を見抜き〔胡宗憲が嘉靖帝に白鹿を献上した時の上奏文「代初進白牝鹿表」が出世作とされる。〕様々な文章の代筆を依頼した。殊に1560年に制作した「鎮海楼記」が高く評価され褒賞を得る。これを元手に40歳にして自宅となる酬字堂を建築。この模様を『酬字堂記』として著している。 しかし2年後、胡宗憲が不正事件〔1562年、宰相の厳嵩・厳世蕃父子の不正事件に連座し投獄される。一度は釈放されるが1565年に再び投獄され獄中で自殺した。徐渭は「祭少保公文」を書きその死を悼んだ。〕に連座し失脚。徐渭自身は罪に問われなかったとはいえ、有力な後ろ盾を失い生活は困窮。しだいに精神が不安定になっていく。一旦は北京に職を見つけるがすぐに辞め紹興に戻った。自ら「墓志銘」を書き、2年間、9回の自殺未遂を重ねた。1566年、ついに狂気から妻である張氏を殺害。7年の獄中生活を送る。知人でありパトロンであった張天復・元汴(げんべん)父子は減刑や釈放に奔走し親身になって徐渭の救出を試みている。 釈放〔神宗即位(1572年)による大赦により釈放される。〕後、紹興近くの名勝五泄山に友人らと滞在し「遊五泄記」〔『徐文長三集』巻23〕を著し、その後に杭州、南京、宣府(河北省)など中国各地を遊歴。多くの人物と交遊。盛んに詩や画の制作、文筆を行った。北京では武将の李如松と面識を得て後に任地の馬水口(河北省)に賓客として厚遇された。1582年、病が進行し帰郷するが家庭内不和で後妻・長男と別居となり次男徐枳(じょき)と暮らす。門戸を閉ざし誰とも会おうとはせず遠出もすることはなかったが、制作意欲は旺盛で「西渓湖記」など多くの傑作を残した。1587年に再び、李如松に招かれたため北京へ赴く途次、徐州で発病しやむなく自宅に戻る。徐枳のみが赴き幕客となっている。後にこのとき徐枳が得た報酬を充てて徐渭の詩文集を編纂した。 1593年、徐枳の岳父の屋敷に仮寓。自伝『畸譜』を書き上げると、その年に没した。享年73。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「徐渭」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Xu Wei 」があります。 スポンサード リンク
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