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徐樹錚[じょ じゅそう]
徐 樹錚(じょ じゅそう)は、清末民初の軍人・政治家。北京政府、安徽派の有力軍人。段祺瑞配下の「四大金剛」の1人(他は靳雲鵬・呉光新・傅良佐)と目され、参謀として活動した。字は又錚。 == 事績 ==
=== 段祺瑞の腹心 === 1892年(光緒18年)、秀才となる。1901年(光緒27年)冬、山東巡撫の任にあった袁世凱に書面を送って任用されようとしたが成功しなかった。しかし、その過程で袁の部下の段祺瑞から評価され、その書記官として登用された。1905年(光緒31年)、日本へ留学し、陸軍士官学校歩兵科第7期を卒業した。帰国後は、第6鎮軍事参議、第1軍総参謀を歴任した。 1912年(民国元年)3月に段祺瑞が陸軍部総長に任命されると、徐樹錚は陸軍部軍学処処長に任命された。同年9月、軍馬司司長兼管総務庁事に異動する。11月、雑誌『平報』を創刊し、段や陸軍の思想を宣伝した。1914年(民国3年)、陸軍部次長に昇進した。この年に、北京で正志中学を創設し、自ら校長となっている。1915年(民国4年)、袁世凱が皇帝即位の動きを見せると、徐は段にこれをボイコットするよう勧めた。6月に、徐の進言に従って段は病気を口実に辞職し、徐もやはり辞職した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「徐樹錚」の詳細全文を読む
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