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徐 盛(じょ せい、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代にかけての武将。呉に仕えた。字は文嚮。徐州瑯邪郡の人。子は徐楷。 == 生涯 == 世が乱れると、故郷を離れ呉郡に避難し、仮住まいするようになった。度胸と義に厚いことで知られるようになったという。孫権が孫策の後を継ぐと別部司馬となり、兵士5百人を預かった。柴桑県長となり、江夏の黄祖の侵攻を食い止める任務を与えられた。あるとき、黄祖の子の黄射が数千人を率いて長江を下り、攻撃してきたことがあったが、徐盛は二百人に満たない数でこの侵攻を食い止め、黄射を徹底的に破ったため、黄射は二度と攻めて来ないようになった。この功績により、校尉となり、蕪湖県令になった。このとき、宣城に駐屯していた蒋欽の部下を処罰しようとしたが、蒋欽の功績を重んじた孫権に拒否された。蒋欽との関係も悪化したが、後に蒋欽の指揮下に付けられた時、蒋欽が私怨に捉われない態度を示したため、徐盛は感謝し蒋欽に心服した(「蒋欽伝」)。 臨城で、山越の不服従民を征伐して功績を挙げ中郎将となり、兵士の監督と選抜の任務にあたった。 曹操軍が濡須に攻め寄せると、徐盛も孫権の指揮下で戦った。曹操軍が横江に押し寄せた時、徐盛は他の部将達と迎撃したが、そのとき蒙衝(突撃船)が強風によって流され、諸将と共に敵中に孤立してしまった。味方の誰もが、敵に取り囲まれたことを知り恐怖に震え上がったが、それに対して徐盛は自ら敵中に突撃した。絶望に捉われていた者たちも、これを見て敵に突撃をかけたため、敵は多くの損害を受け引き返した。このため、徐盛達は天候が回復した後に堂々と帰還することができた。 あるとき、朱然達と共に周泰の指揮下に付けられたことがあった。徐盛達は周泰を軽く見て命令に従おうとしなかったが、孫権が周泰の功績を強調し厚遇する態度を示したため、徐盛達も周泰の下に付くことを納得するようになった(「周泰伝」)。 215年の合肥の戦いでは、曹操軍の張遼の攻勢により負傷し、一時的に将軍の旗指し物を奪われたが、賀斉に救援されたという(「賀斉伝」)。 221年には、一時的に魏へ臣従していた孫権が呉王の位を与えられることになったため、使者の邢貞が訪れた。邢貞が孫権に対して傲慢な態度をとったため、張昭をはじめ群臣達は皆立腹したが、徐盛は堂々と一歩進み出て「我等が過去に劉備如きを併呑できなかったがため、今は魏如きと盟約を結ぶ事となってしまった。このような恥なことは無い」と言い放ち、号泣した。これを聞いた邢貞は甚く感服し、呉がいつまでも臣従しないであろうと随員達に語った。 徐盛は建武将軍となり、都亭侯に封じられた。さらに、廬江太守となり、臨城県を奉邑として与えられた。 蜀漢の劉備が西陵(夷陵)に攻め寄せると、陸遜達とともに迎撃の任にあたり(「陸遜伝」)、蜀軍の砦を奪取し、軍を進めるごとに手柄を立てた。永安に逃れた劉備を捕らえるために、潘璋や宋謙達と挙って上奏したが、孫権は曹丕に備えるべきとする陸遜達の意見を取り上げた(「陸遜伝」)。 魏の曹休が洞口に攻め寄せると、呂範や全琮とともに長江を渡って迎撃しようとしたが、暴風雨により多くの船や人員を失った。しかし結果的には残兵をかき集めて、寡兵で曹休の攻撃を防ぎきった。安東将軍・蕪湖侯となった。 224年、曹丕が自ら大軍を率い長江沿いに南下してきた。徐盛は、兵力で大きく劣る呉軍がまともに戦っても勝算は乏しいと踏み、沿岸数百里におよぶ偽の城壁を建造しようとした。諸将は無意味だと挙って反対したが、徐盛はこれを強行して偽の陣を築いた。曹丕は広陵まで来たところで、これを見て「彼(孫権)には未だ人材が多く、攻め取るのは難しい」と判断し、撤退した。 その後、黄武年間(222年-229年)に没したという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「徐盛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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