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徐紹テイ[じょ しょうてい]
徐 紹楨(じょ しょうてい)は清末民初の軍人。辛亥革命では革命派に属し、護法運動以降も孫文(孫中山)を補佐した。字は固卿。祖籍は浙江省杭州府銭塘県。なお「徐紹禎」の表記は誤りである。 == 事績 ==
=== 清末の活動 === 地方官僚の家庭に生まれる。幼い頃から学問に親しんだが、後に実学・軍事学への関心も示した。1894年(光緒20年)、甲午科挙人となる。以後、両広藩署幕僚、江蘇省候補道員を歴任した。 その後、日本へ軍事の視察に赴き、1904年(光緒30年)、両江兵備処総弁となる。ここで新軍の訓練に責任を負った。翌年、江南新軍第9鎮が設立されると、徐紹楨が統制(師長に相当)に任じられている。さらに江南緑営総兵官や江北提督も兼任した。徐紹楨は当初立憲派の思想に近かったが、立憲が実現しない状況に失望し、次第に革命派に心を寄せるようになる。徐配下にも趙声・柏文蔚など革命派士官が多く、徐は彼らをよく庇護した。 1911年(宣統3年)、武昌起義が勃発する。徐紹楨は革命派に与し、江浙聯軍総司令に推戴された。11月、徐は江浙聯軍を率いて南京を攻撃し、清軍の統領王有宏を戦死させて南京を占領している。1912年(民国元年)1月、南京に中華民国臨時政府が成立すると、孫文から南京衛戌総督に任ぜられた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「徐紹テイ」の詳細全文を読む
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