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徐鉉[じょげん] 徐鉉(じょげん、916年 - 991年)は、中国の五代十国時代から北宋代の政治家・学者・書家。字は鼎臣(ていしん)。 弟の徐鍇(じょかい、「鍇」はかねへんに「皆」)とともに篆書によく通じて「二徐」と並び評され、弟に対し「大徐」と呼ばれた。篆書を中心とした後漢代の漢字字典『説文解字』の校訂者として知られる。 ==生涯==
===幼少期から南唐代=== 呉の天祐13(916)年、広陵(現在の江蘇省揚州市)に生まれる。かなり利発な子供であったと言われ、10歳にして書文をよくものして地元随一の秀才と讃えられた。 長じて官吏となり、呉王朝に仕えて校書郎となったが、天祚3(937)年8月、21歳の時に呉最後の皇帝・楊溥が太師であった徐知誥(李昪、「昪」はひらびの下に「弁」)に禅譲し、南唐が立った。ここでも優秀であった鉉は引き続き重用され、尚書右丞、兵部侍郎、翰林学士、御史大夫、吏部尚書など文官を中心に任用された。歴代皇帝の信任も篤く、また文官として優秀であったことから、五代十国の中でも特に文化王朝であった南唐を文化面から支えた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「徐鉉」の詳細全文を読む
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