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徐鍇(じょかい、921年-975年)は、中国の五代十国時代の学者。字は楚金(そきん)。 兄の徐鉉とともに篆書によく通じて「二徐」と並び評され、兄に対し「小徐」と呼ばれた。篆書を中心とした後漢代の漢字字典『説文解字』の注釈者として知られる。 ==生涯== 呉の武義3(921)年、広陵(現在の江蘇省揚州市)に生まれる。兄と並んで利発であり、また大変な読書家であったという。 成長後は官吏となり、兄の徐鉉とともに南唐に仕え、屯田郎中、知制誥、集賢殿学士、右内史舎人などを歴任した。兄同様、歴代皇帝の信任篤く、またそのすさまじい文献蒐集能力により大量の書物を集めて「南唐の蔵書、天下に冠たり」とまで言わしめ、文化王朝であった南唐を支えた。 鍇が特に得意としたのが兄と同じく篆書であった。文献の校訂能力に長けた彼は、兄より早く後漢代の篆書を中心とした漢字字典『説文解字』に注釈をつけ、『説文繋伝』という注釈書を作り上げた。また文字を四声(アクセント)によって配列した『説文韻譜』という書も作った。これらの書は兄が校訂した『説文解字』を「大徐本」というのにならい「小徐本」と呼ばれた。 このように兄と並んで学者として大きく飛翔した鍇であったが、開宝8(975)年、南唐が北宋から攻撃を受け、滅亡したことによりその人生が破滅する。この時兄の徐鉉や最後の皇帝・李煜とともに北宋の首都・開封に連行されることになったのであるが、鍇は北宋に囚われるをよしとせず、憂悶した挙句北宋領内に入った途端に急死したのである。享年55であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「徐カイ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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