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徒単夫人 : ミニ英和和英辞書
徒単夫人[と]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [と]
 【名詞】 1. party 2. set 3. gang
: [ひとえ, たん]
 【名詞】 1. one layer 2. single 
: [おっと]
 【名詞】 1. (hum) (my) husband 
夫人 : [ふじん]
 【名詞】 1. wife 2. Mrs 3. madam 
: [ひと]
 【名詞】 1. man 2. person 3. human being 4. mankind 5. people 6. character 7. personality 8. true man 9. man of talent 10. adult 1 1. other people 12. messenger 13. visitor 1

徒単夫人 ( リダイレクト:孝懿皇后 (金) ) : ウィキペディア日本語版
孝懿皇后 (金)[ひと]
孝懿皇后(こういこうごう、1147年 - 1191年)は、の皇太子完顔允恭(顕宗)の正妃。章宗の母。姓は徒単氏(とぜんし)。
== 生涯 ==
徒単貞の娘〔徒単貞の本妻は平陽長公主(海陵王の同母妹)。正史で孝懿皇后の母の姓名に関して記載はない。孝懿皇后は庶出の可能性もある。外史によると、孝懿皇后の母は側室某氏、徽宗の顕徳帝姫の娘であった。〕。落ち着いた性格で、やり手の女性だったという。
徒単貞は迪古乃(後の海陵王)の同母妹と結婚し、熙宗を弑逆して海陵王を擁立する企てに加担した。世宗が即位すると、徒単貞は世宗に謁見し、帰順した。世宗は満足した。
大定4年(1164年)、皇太子允恭(後年、顕宗の廟号を追贈された)の妃に選ばれた。徒単氏自身は家族誅滅の憂き目に遭うことをおそれ、ときどきに父に諫言した。大定22年(1182年)11月丙子、熙宗殺害の責を問われ、徒単貞夫婦は2人の男子と共に処刑されたが、太子妃の位は変わらなかった。
允恭は父帝に先立ち大定25年(1185年)に病死したが、4年後に章宗が即位すると徒単氏は皇太后となり、隆慶宮と称した。老荘を好み、清らかで気持ちは安らかであった。
明昌2年(1191年)正月、崩御した。「孝懿」とされて、顕宗と合葬された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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