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御内人(みうちびと、みうちにん)は、鎌倉時代に執権北条氏の家督・得宗に仕えた、武士、被官、従者。 == 概要 == 「御内」とは、元々は特定個人の家政、及びこれに属する従者・所領などを意味する。よって、本来は主人を冠して「(誰々)御内」と表記するのが正しい。しかし、鎌倉後期に得宗の政治的・経済的・社会的影響力が突出した結果、単に「御内」と言えば「得宗の御内」と理解されるようになり、「御内人」も「得宗の従者」を意味するようになった。嘗ては、得宗の従者とその他北条氏の従者を区別すること無く「御内人」と呼んだり、現在では両者をまとめて「北条氏被官」とする場合もある。しかし、北条氏庶家と得宗家、それぞれの従者は殆ど一致しておらず庶家は独自に従者を獲得している事や、北条氏各家は独立採算制をとっている事、何より鎌倉時代当時「御内人」は得宗の従者に限定して用いられている事から、「御内人」は得宗の従者のみに限って用いられるべきだと考えられる〔細川 (2005)pp.123-124〕。 当初は、北条宗家である北条得宗家の所領(北条代所領、得宗領)の代官として管理を担当していた。北条氏の一門が守護となった国では守護代を務めた。元寇の弘安の役においては、作戦指令が執権北条時宗の名で出され、得宗被官たる御内人が戦場に派遣されて御家人を主体とする軍の指揮にあたった。 この結果、得宗家の勢力が強化され、それに伴い御内人も幕府内で権勢を持つようになった。そのため、将軍の従者である御家人は、御内人に対して「外様」と称されるようになる。ただし、御内人の多くは御家人を兼ねており、兼任していても特に支障はなかった。そもそも、長崎氏・諏訪氏・尾藤氏・安東氏・工藤氏・金窪氏といった、幕政にも地位を得た著名な御内人は、みな御家人である。よって、辞書などではしばしば、「御内人は陪臣のため、身分が低かった」と記されているが、これは誤りである。もっとも、泡沫の御家人が北条氏に臣従したり、最初から北条氏の郎党でしかなかった者が主家の伸張によって御家人身分を獲得した例が多いため、当初は北条氏と肩を並べ、あるいは元々はこれを遥かに凌駕する豪族であった御家人などからは蔑まれていた一面はある。 北条貞時の時代になると、御内人の筆頭である平頼綱は内管領(御内頭人)と呼ばれるようになった(内管領とは幕府の役職ではない)。頼綱が有力御家人の安達泰盛を霜月騒動で滅ぼして恐怖政治を敷いたり、北条高時の時代に長崎円喜・高資父子が専横を極めたように、内管領には執権や得宗を凌駕する者も現れた。滞る幕府への訴訟を早く有利に解決したい当事者達は、得宗権力を行使する御内人に賄賂を贈り、また得宗領内で貿易や金銭の貸し付け、土地の売買を行うなど、困窮していく御家人と対照的に、御内人は新たな富裕層となっていた。これはすなわち幕政の腐敗であり、御家人の不満が高まるとともに諸国で悪党が活動を活発化させ、倒幕へと結びついていった。 殆んどの御内人は鎌倉幕府滅亡時に、北条一族とともに滅亡するか没落した。主な御内人は、長崎氏、紀氏、飯尾氏、安東氏など累代の御内人の他、三浦氏、和田氏、安達氏など北条氏に排斥された元有力御家人一族の生き残りや北条氏支流など多岐に渡り、得宗家の威光がしのばれる。 鎌倉幕府滅亡後、御内人の中には建武政権に抵抗して北条氏の復活を図る者と反対に建武政権の鎌倉将軍府などに出仕して建武政権の下で幕府体制そのものの再建を図ろうとする者がいた。御内人の1人であった諏訪頼重が北条時行を擁して起こした中先代の乱では結果的には御内人同士が分裂して戦うことになった。後者の中には飯尾氏などのように鎌倉将軍府から足利将軍家に仕えて、室町幕府・鎌倉府で活躍する者もいた〔 阪田雄一「中先代の乱と鎌倉将軍府」(佐藤博信 編『関東足利氏と東国社会 中世東国論:5』(岩田書院、2012年) ISBN 978-4-87294-740-3) )〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「御内人」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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