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御側御用取次(おそばごようとりつぎ)は、享保の改革期に新設された最重要の将軍側近職である。時には将軍の信任を背景に、老中・若年寄などの幕閣を越える権勢をふるった。 ==御側御用取次== 御側御用取次は、徳川吉宗が将軍に就任した時に紀州藩年寄小笠原胤次、御用役有馬氏倫、同加納久通の3名の紀州藩士を江戸幕府の側衆に採用して申次役に任じたことに始まる。当初の名称は「御用懸り(御用掛)」や「御用懸り(御用掛)御側衆」であったが、宝暦4、5年頃から「御側御用取次」の呼称が正式となった。前称についても幕末まで通称として使用されている場合がある。 定員は側衆から特に親任されたもの3名といわれる〔松平太郎『江戸時代制度の研究 上巻』武家制度研究会、1919年 〕が、実績から言えば1~5名であり、3名または3名の在職であることが多かった。側衆が宿直勤務をするのに対して御側御用取次は日勤であり江戸城中奥の談事部屋を詰め所とした。〔深井雅海「江戸幕府御側御用取次の基礎的研究」1983年5月(『国史学 第120号』)〕 職務は将軍の居所である中奥の総裁、将軍と老中以下の諸役人との取次役、将軍の政策・人事両面の相談役、将軍の情報源である目安箱の取り扱いや御庭番の管理などである。通常の側衆が決定事項などの事務処理をするのに対し、御側御用取次は未決事項の立案・審議に参画し、時には将軍に相談無しに老中への指示を出す場合もあった。 若年から将軍の側近として行動を共にしてきた者が将軍専制のために御側御用取次に信任されるという性格がある。家禄が2千石以上の中・下級幕臣として就任するが、平の側衆と比較して側近しての信任の厚さから加増されるケースが多く、就任46名中の2割にあたる9名が万石以上の大名になり、そのうち6名が若年寄、3名が側用人、2名が老中に昇進している。 徳川綱吉が将軍専制を行うために採用した側用人制度は老中合議制を掣肘しており、徳川吉宗がこれを廃止して譜代大名を懐柔しつつも同様の専制を行うために、より小身から採用した御側御用取次も老中合議制を掣肘した(例えば田沼時代末期の御側御用取次横田準松は老中人事に介入して松平定信の就任を阻止し、逆に定信派の御側御用取次小笠原信喜は一橋治済の意を受けて定信の老中上座就任に貢献した)。しかし、逆に御側御用取次が老中側に取り込まれる場合もあり、その時は将軍側が幕政から遊離した。更に将軍権威を背景に御側御用取次が独自の判断で奉行などの実務官僚と接触して指示を出すようになると、将軍も老中も幕政から遊離する危険性を伴う制度であり、時に重要な役職であった。 御側御用人と御側御用取次は将軍側近という似通った職務を担っていたが、享保以降は併設される場合もあった。御側御用人は大名格であり、格式の高い待遇を受けていたのに対し、御側御用取次は軽輩でありながら、より将軍に近接して将軍権威を身近にしていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「御側御用取次」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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