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御土居下御側組同心(おどいしたおそばぐみどうしん)とは、尾張藩が置いた役職の一つである〔中村(1990)、220頁。〕〔生駒(1995)、140頁。〕〔岡本(1980)、86頁。〕。表向きは城門の警備や藩主の護衛などを職務としていたが、名古屋城が落城するような事態となった時に藩主の身を守り無事に逃がすという極秘の任務を与えられていた〔〔〔岡本(1980)、63頁。〕〔御土居下御側組同心を忍者とするものもある(高木(1994)、29頁)が、御土居下御側組の子孫で自身も御土居下に住んでいた岡本柳英は、御土居下御側組同心で忍術で知られた広田増右衛門を評して「尾張藩にて忍術の心得あるものは、極めて稀であった」(岡本(1980)、133頁)と述べている。〕。現実には、尾張藩はそのような事態を経験することなく明治維新を迎えたため、彼らが本来の任務を遂行する機会はなかった〔岡本(1980)、221頁。〕。 == 概要 == === 任務 === 御土居下とは、名古屋城三の丸の北辺に築かれた土居(御土居)の外側にあたり、北は御深井庭、東は柳原街道、南は土居、西は水堀である御深井堀で囲まれた東西約4町(約440メートル)の長方形の地域である〔岡本(1980)、27頁。〕。東側は東矢来木戸、北側は枳殻の生垣で外部と隔てられ、西端部分は御深井庭から城内への入口となる高麗門と三の丸の清水門の間の坂道となっていた〔生駒(1995)、142頁。〕〔岡本(1980)、51-55頁。〕。 御土居下御側組はここに住居を与えられ、平時は、高麗門・清水門や東矢来木戸の門番、御深井庭や堀の警備、藩主の近侍や藩主外出時の護衛などを務めた〔〔〔。参勤交代で藩主が参府する時も必ず誰かが同行した〔生駒(1995)、144頁。〕〔岡本(1980)、93頁。〕。しかし彼らの本来の任務は、万が一名古屋城が落城するような危急の事態に陥った際に、藩主を守って無事に藩領の木曽まで逃がすことにあった〔〔。平時の職務も、脱出経路にあたる個所の警備や藩主の身辺警護など、この任務に直結するものであった〔〔。 この御土居下御側組に与えられた任務については、藩内でも藩主とごく一部の上層部しか知らない極秘事項であり、御土居下御側組でも父から嫡子にのみ口伝で引き継がれた〔〔窪田(1994)、22頁。〕〔高木(1994)、29頁。〕。この極秘の任務のため御土居下御側組は身元の確かな譜代の家に限られ、ほとんど入れ替わりはなかった〔生駒(1995)、143頁。〕。また、婚姻や養子縁組に際しては藩による厳重な身元調査が行われ、同心株の売買も禁じられていたため、他の同心組のように農民や商人が入ることはなかった〔〔岡本(1980)、114頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「御土居下御側組同心」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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