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神子田 正治(みこだ まさはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊臣氏の家臣。通称は半右衛門、半左衛門尉。姓は御子田とも。 == 生涯 == 尾張国海西郡鯏浦の神子田肥前守の子。織田信長が尾張国を統一した際に、父とともにその配下に入ったといわれる。永禄3年5月19日(1560年6月12日)の桶狭間の戦いや永禄10年(1567年)までつづいた美濃国の斎藤氏攻めで功績を上げ、木下秀吉に請われて家臣となる。 秀吉の長浜城時代には黄母衣衆となり、天正元年(1573年)に近江国に250貫文の所領を与えられたという。中国攻めに従軍して三木城攻め(三木合戦)などで活躍、播磨国に5,000石を領するにいたる。天正10年(1582年)の本能寺の変後も秀吉に従い、山崎の戦いに参加、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは一軍を率いた。その後に播磨広瀬城主として1万2,000石に加増された。 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにおいては日根野弘就らと共に二重堀砦の守備に入っていた。5月1日に羽柴軍の主力が美濃へと転身する際に砦を捨てて日根野弘就・細川忠興・木村重茲・長谷川秀一らと羽柴軍の殿を努め、追撃を仕掛けてきた織田信雄の軍と交戦した。しかし、正治は他隊が交戦中にも関わらず無断で先に離脱したため、その責任を問われて所領を没収された上で高野山に追放された。その後、天正13年(1585年)には高野山からも追われて諸国を放浪、豊後国へ流れた。天正15年(1587年)には九州征伐で陣にあった秀吉に帰参を懇願したが、許されずに自害を命じられた。 一説に軍学に優れていたが、強気で皮肉な言動を秀吉に疎まれていたという。同じく羽柴四天王に並び称された秀吉の初期の功臣・尾藤知宣も天正18年(1590年)に処刑されており、正治の自害は豊臣政権の転換期を象徴する出来事であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「神子田正治」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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