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益田氏(ますだし)は、石見益田を本拠としていた武家。本姓は藤原氏といわれる。はじめ浜田の御神本に居館を構えたことから御神本氏(みかもとし)を称した。後に毛利氏に臣従し、関ヶ原の戦い後は長門須佐を領した。 一族の通字は「兼」。家紋は「上り藤に久の字」。 == 歴史 == 初代は藤原忠平の9世の子孫、石見守藤原国兼といわれる。永久2年(1114年)、石見に赴任するために下向。任期終了の永久6年(1118年)以降も石見に留まり続け、そのまま土着豪族化した。その際、石見上府(浜田御神本)に拠点を構え、御神本氏を称した。 3代兼栄、4代兼高の代で益田氏は石見に有力武士団を形成した。兼高は石見の在庁官人として石見における地位を確立し、あわせて石見押領使に補任された。また、兼高の代で居館を益田に移し(建久9年、1192年)、これ以降益田氏に改める。なお、兼高の次男の兼信は三隅(みすみ)氏を名乗り、分家三隅氏を興す。 5代兼季は石見の莫大な所領を子らに分封した結果、周布氏・末元氏・丸茂氏・多根氏等の庶流が生まれた。南北朝時代になると益田宗家は北朝方、三隅・福屋・周布などの分家は南朝方に付いた。 観応の擾乱が勃発すると、益田氏は大内弘世と共に中国探題であった足利直義方に付いた。その後直義方が劣勢になると大内氏は足利尊氏方に寝返り、益田氏もそれにならった。以後益田氏は大内氏の傘下として石見国人の筆頭の地位を築いた。応仁の乱で益田兼堯・貞兼父子は大内政弘に従い石見で大内教幸や吉見信頼の反乱を鎮圧して石見の勢力を伸ばし、益田宗兼・尹兼父子は大内義興に従軍して永正5年(1508年)に上洛するまでになった。 天文20年(1551年)、大寧寺の変で大内義隆が陶晴賢ら重臣の謀反で討たれると、益田藤兼は晴賢と縁者の立場から晴賢主導の大内氏に従った。しかし、天文24年(1555年)の厳島の戦いで晴賢が毛利元就に討ち取られると藤兼も翌弘治2年(1556年)に元就の次男・吉川元春に益田領へ攻め込まれ、翌3年(1557年)に降伏、以降は毛利氏に従属することとなった。子の元祥も引き続き毛利氏に仕えたが、関ヶ原の戦いで毛利氏は減封、元祥も石見益田を離れて長門須佐に移った。以後、益田氏は長州藩の永代家老として毛利氏に仕え、問田益田家など分家三家も寄組として繁栄した。幕末に禁門の変で長州軍の指揮を執り、長州征討で責任を取って切腹した益田親施(右衛門介)は子孫である。ちなみに、同時代の長州藩士である周布兼翼(周布政之助)も前述の周布氏の一族出身である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「益田氏」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Masuda clan 」があります。 スポンサード リンク
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