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御荘金吾 : ミニ英和和英辞書
御荘金吾[みしょう きんご]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ご, お, おん, み]
  1. (pref) honourable 2. honorable 
: [きん]
  1. (n,n-suf) (1) gold 2. (2) gold general (shogi) (abbr) 
: [われ]
 【名詞】 1. me 2. oneself 3. self 4. ego

御荘金吾 : ウィキペディア日本語版
御荘金吾[みしょう きんご]

御荘 金吾(みしょう きんご、1908年12月11日 - 1985年7月22日)は、日本の脚本家映画監督劇作家放送作家である〔近代, p.284.〕〔朝日, p.155.〕〔演劇年報, p.164.〕〔日外, p.241.〕〔3 放送脚本 愛媛県生涯学習センター、2015年2月12日閲覧。〕〔''御荘金吾''Webcat Plus, 2015年2月12日閲覧。〕〔''御荘金吾''20世紀日本人名事典コトバンク、2015年2月12日閲覧。〕〔国立国会図書館サーチ 検索結果、国立国会図書館、2015年2月12日閲覧。〕〔''御荘金吾''・''木村力馬''文化庁、2015年2月12日閲覧。〕〔''御荘金吾''KINENOTE, 2015年2月12日閲覧。〕〔''御荘金吾''allcinema, 2015年2月12日閲覧。〕〔''御荘金吾''日本映画データベース、2015年2月12日閲覧。〕〔''御荘金吾''日本映画製作者連盟、2015年2月12日閲覧。〕〔''御荘金吾''日活、2015年2月12日閲覧。〕〔''御荘金吾''東映チャンネル、2015年2月12日閲覧。〕〔''御荘金吾''テレビドラマデータベース、2015年2月12日閲覧。〕。本名は木村 力馬(きむら りきま)〔。戦後に発表したルポルタージュ『ブラジルぶらぶら記』(1958年)で知られ、日本ブラジル中央協会理事を務めた〔〔〔。
姓の読み「みそう」〔は誤り〔〔〔。
== 人物・来歴 ==

=== サイレント映画と脚本の時代 ===
1908年(明治41年)12月11日、愛媛県南宇和郡御荘村(現在の同県同郡愛南町)に生まれる〔〔。本名は木村力馬であり、内海突破(1915年 - 1968年、本名・木村貞行)、のちに「二代目内海突破」を名乗った笹山丹波(1917年 - 、本名・木村三郎)は、それぞれ御荘の弟である〔高橋, p.73.〕〔朝日, p..〕〔愛媛県史 人物 う 、愛媛県生涯学習センター、2015年2月12日閲覧。〕。御荘が御荘村、内海が内海村(現在の愛南町)生まれであるのは、彼らの父が建築業であり、仕事の関係上、同県内を転々としたためである〔。
長じて東京に移り、日本大学法文学部文学科文学芸術専攻(現在の日本大学藝術学部)に進学するが、満20歳を迎える1928年(昭和3年)には中途退学する〔〔。
1932年(昭和7年)、奈良県生駒郡伏見村(現在の同県奈良市あやめ池北1丁目)に市川右太衛門が構えていた市川右太衛門プロダクション(右太プロ)に籍を置き、脚本を書く〔〔〔。記録に残るもっとも古い作品は、1933年(昭和8年)3月15日に公開されたサイレント映画無宿佐太郎』(監督古野英治)である〔〔〔〔〔〔〔。翌1934年(昭和9年)初頭、同社から独立した監督の白井戦太郎大阪府交野郡牧野村(現在の同府枚方市牧野本町1-10)に設立した亜細亜映画に、御荘も参加してオリジナル脚本を提供、日活太秦撮影所の端役俳優だった近衛十四郎を主演俳優として抜擢し、同年4月に『叫ぶ荒神山』、同年5月に『曲斬海道旅』を発表した〔〔〔奥田, p.116.〕。このときの共演俳優に結城重三郎、のちの小崎政房がいた〔〔。同年8月に発行された『キネマ旬報』通巻第513号には、中川信夫藤井滋司柳川眞一とともに比較して瀧澤初壽が論じた『御莊金吾・中川信夫・藤井滋司・柳川眞一』が掲載された〔〔キネ旬, p.72-73.〕。亜細亜映画は同年9月の台風で撮影所が崩壊して解散、御荘は右太プロやその配給提携先の松竹キネマに脚本を提供したが、右太プロが1936年(昭和11年)に解散して松竹キネマに吸収され、その後の御荘は片岡千恵蔵片岡千恵蔵プロダクション(千恵蔵プロ)やその配給提携先の日活に脚本を提供した〔〔〔〔〔〔〔。1937年(昭和12年)7月1日に公開された千恵蔵プロでの『松五郎乱れ星』(監督衣笠十四三)が、御荘の手がけた最初のトーキーであった〔〔〔〔〔〔〔。
1941年(昭和16年)8月7日に公開された『子供ごゝろ』(監督吉村操)では、かつて亜細亜映画社に俳優として参加した小崎政房の原作を御荘が脚色、1942年(昭和17年)1月27日に設立された大日本映画製作(のちの大映、現在の角川映画)に所属〔〔、1943年(昭和13年)1月28日に映画配給社紅系で公開された大映東京撮影所作品『女のたたかひ』を小崎政房とともに監督している、とする資料がある〔。同作が御荘にとって、唯一の監督作品となった〔〔〔〔〔〔〔。ただし御荘は小崎と共同脚本であって、小崎と共同で監督したのは萩野頼三である、とする資料も多い〔〔、2015年2月12日閲覧。〕〔、2015年2月12日閲覧。〕〔、2015年2月12日閲覧。〕。同日に白系で公開された理研科学映画社文化映画海を耕す』(監督中西卯之助)に、本名の「木村力馬」名義で脚本を提供している〔。同2作をもってしばらく映画を離れた〔〔〔〔〔〔〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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