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復活日論争 : ミニ英和和英辞書
復活日論争[ふっかつびろんそう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

復活 : [ふっかつ]
  1. (n,vs) revival (e.g., musical) 2. restoration 3. come-back 
: [にち, ひ]
  1. (n-adv,n-t) sun 2. sunshine 3. day 
: [ろん]
 【名詞】 1. (1) argument 2. discussion 3. dispute 4. controversy 5. discourse 6. debate 7. (2) theory 8. doctrine 9. (3) essay 10. treatise 1 1. comment
論争 : [ろんそう]
  1. (n,vs) controversy 2. dispute 

復活日論争 : ウィキペディア日本語版
復活日論争[ふっかつびろんそう]
復活日論争(ふっかつびろんそう、, )とはキリスト教において、復活祭(復活日)をいつ祝うかを巡って起きた論争。
初代教会では復活祭はユダヤ教過越の祭りと同じ日に祝われていたと考えられている。過越の祭りの始まりはユダヤ教の暦で「ニサンの月の14日」に固定されている〔PASSOVER - JewishEncyclopedia.com 〕。しかしキリスト教が各地に広まっていく中で、復活祭をいつ祝うかということで2世紀頃から論争が起こることになった〔プロテスタントの出典:『キリスト教大事典』910頁、教文館、昭和48年9月30日 改訂新版第二版〕〔(正教会:教会用語辞典)〕〔CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: Easter カトリック百科事典)〕。
この論争は古代に終結したが、16世紀西方教会グレゴリオ暦を採用して以降、今度は西方教会と東方教会の間で復活祭の日付に相違が生じている。

== 古代の論争 ==
小アジアの教会はユダヤ教以来の伝統に従ってニサンの月の14日をパスカ(復活祭)として祝っていたため、平日に祝われることもあった。一方、ローマをはじめ多くの教会ではイエスが復活した日曜日を主イエスの日として優先するため、復活祭(パスカ)も復活の日である「ニサンの月の14日の後の最初の日曜日」に祝う習慣であった〔。
2世紀にはこの相違が顕在化。154年には小アジアのポリュカルポスとローマのアニケトゥスの間の会談において議論が行われた。170年代にはラオディキアで論争が生じ、190年代にも論争が再燃。ローマのウィクトル1世エフェソスポリュクラテスと論争し、日曜日に復活祭を祝わない者に対しては破門も辞さない厳しい態度で臨んだ〔〔CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: Pope St. Victor I 〕。こうしたウィクトル1世の強硬な姿勢は全司教(主教)達に歓迎されず〔、日曜日に復活祭を祝うこと自体には賛同する(小アジア以外の)東方教会の主教達からも、たしなめる意見が相次いだ〔History of the Christian Church, Volume II: Ante-Nicene Christianity. A.D. 100-325. - Christian Classics Ethereal Library 〕。
この時、リヨンエイレナイオスが調停に立った。エイレナイオスは小アジアのスミルナ出身でガリア(リヨン)の司教であり、小アジアの伝統とローマ側の主張の両方をよく理解している人物であった〔。エウセビオスはエイレナイオスが教会分裂の阻止に果たした役割につき賞賛している〔。エイレナイオスは他の司教達(主教達)とともにウィクトル1世に対しては強硬姿勢を批判する一方で、小アジアの教会に対して日曜日に復活祭を祝うよう説得に努めた〔。その結果、ごく一部の小アジアの伝統を維持しようとした分派「十四日教徒」が5世紀頃まで存続した以外は、概ね小アジアの諸教会は他教会と協調するようになっていった〔。
325年におこなわれた第1ニカイア公会議では全教会で復活祭を同じ日曜日に祝うことを決議した〔。
ローマとアレクサンドリアの間にも暦法上の相違があり、復活祭の日付も異なることがあったが、だんだんローマはアレクサンドリアの暦法を取り入れるようになった。西方のローマ教会は6世紀までは独自の方法で復活祭を算出していたが、アレクサンドリアの教会の手法を(ローマで用いられていた)ユリウス暦に適応させる方法がディオニュシウス・エクシグウスによって編み出されたことでようやくその決定法を採用することになった。イギリスやフランスなどの各地でも当初はローマ式の方法が採用されていたが、やがてディオニュシウスの方法が採用され、ようやく復活祭の日付がヨーロッパの全キリスト教会で統一されることになった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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