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徳久 利明(とくひさ としあき、1942年12月8日 - 1998年3月13日)は、高知県土佐清水市出身〔『朝日新聞』1998年3月14日付朝刊 (14版、31面)〕のプロ野球選手(投手)。 == 来歴・人物 == 高知商では、2年生の時に山崎武昭の控え投手として春夏連続で甲子園大会に出場したが、登板の機会は無かった。翌夏は南四国大会の準決勝に進出するが、池田高に延長11回の熱戦の末に敗退し、甲子園には届かなかった。に近鉄バファローに入団。担当スカウトは根本陸夫〔【根本陸夫伝】高校を中退させて「18歳の4番打者」を作った男 〕。 1升マスで一気飲みが出来、当時の監督の千葉茂からは「入団したとき、すでにいっぱしの大酒のみやったなぁ」と言われ、千葉に「節制すれば200勝投手になれた」とも言われ、恵まれた体格から別所二世とも言われた事もある。千葉から「絶対に新人王を取らせたる」として来る日も来る日も徳久を使い続け、1年目から58試合に登板する。初勝利するまでの6連敗は高卒新人の1年目としてはNPBタイ記録〔1953年に西鉄ライオンズの西村貞朗が記録〕〔週刊ベースボール2014年7月7日号105ページ〕。この年、チームはNPB史上最多のシーズン103敗(36勝1分)で最下位に低迷し、その中で徳久はチーム最多の15勝を挙げるが、同時に24敗でチーム及び、リーグ最多敗となっている。この年、球団初の新人王に選出されている〔年度別成績 1961年 パシフィック・リーグ 〕〔ベースボールマガジン社刊「さらば大阪近鉄バファローズ」57ページ〕〔ベースボールマガジン社刊「永久保存版近鉄バファローズ球団史1950-2004」45ページ〕、8試合サヨナラ負けを記録したが、そのうち5試合の本塁打によるサヨナラ負けはNPB記録となる。4月23日の対阪急ブレーブス戦ダブルヘッダーでは2試合続けてサヨナラ負けで徳久に敗戦投手が記録されており〔講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」430ページ〕。リリーフでの12敗はそれまでのNPB記録を更新するものとなった(1966年に近鉄の山本重政が13敗で更新)〔日本野球連盟刊「日本プロ野球記録大百科2004第4版」343ページ〕。 翌年は右ひざや目の故障〔で不振に終わる。は自己最多の20勝を挙げた。6月16日の対阪急戦では9回2死まで無安打に抑えていたが岡本健一郎に二塁打を打たれノーヒットノーランを逃した〔『朝日新聞』1963年6月17日付朝刊 (12版、13面)〕。1963年からにかけてはチームの勝ち頭となるが〔日本野球連盟刊「日本プロ野球記録大百科2004第4版」63-67ページ〕、体調不良や首脳陣との確執もあり〔、に西鉄ライオンズに移籍し、限りで引退。 その後は大阪で少年野球チームを指導していた。1998年3月13日に肺がんのため鹿児島県内の病院で死去した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「徳久利明」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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