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徳大寺 公清(とくだいじ きんきよ)は、鎌倉時代から南北朝時代の公卿。従一位内大臣。後野宮と号す。父は権中納言徳大寺実孝。母は太政大臣西園寺公相の娘。 == 経歴 == 以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』、『園太暦』の内容に従って記述する。 正和5年(1316年)11月18日、叙爵。文保2年(1318年)1月7日、従五位上に昇叙し、11日には正五位下に昇叙。元亨元年(1321年)9月1日、左少将に任ぜられる〔『公卿補任』には元侍従、とある。〕。元亨2年(1322年)1月11日、従四位下に昇叙。同月17日には父実孝が権中納言のまま薨去した。元亨3年(1323年)3月20日、中宮権亮を兼ねる。元亨4年(1324年)1月5日、従四位上に昇叙され、13日には美作介を兼ねる。正中2年(1325年)10月9日、左中将に任ぜられる。正中3年(1326年)3月8日、右中将に遷る。後醍醐天皇中宮西園寺禧子の中宮権大夫となる。嘉暦2年(1327年)1月5日、正四位下に昇叙され参議に任ぜられる。中将は元の如し。嘉暦3年(1328年)3月16日、近江権守を兼ねる。同年6月13日には権中納言に任ぜられ従三位に叙される。同年11月24日、帯剣を許される。元徳2年(1330年)1月5日、正三位に昇叙。元徳3年(1331年)3月18日、右衛門督を兼ねる。正慶元年(1332年)5月20日、中宮権大夫を止める。同年9月10日には従二位に昇叙され、10月21日には権大納言に任ぜられる。正慶2年/元弘3年(1333年)5月17日、後醍醐天皇の復位により詔が下され、正三位に戻され権中納言と中宮権大夫に戻される。7月12日、西園寺禧子が皇太后となるとそのまま皇太后権大夫となるも、同年に禧子皇太后の崩御に伴い10月12日、辞職した。建武元年(1334年)1月5日、従二位に叙される。建武3年/延元元年(1336年)11月14日、春宮権大夫を兼ねる。建武4年/延元2年(1337年)、権大夫を止め、12月24日には正二位に昇叙。暦応元年/延元3年(1338年)10月19日、権大納言に任ぜられる。康永2年/興国4年(1343年)3月19日、右近衛大将を兼ね4月10日には大納言に転正し、5月1日には右馬寮御監となる。貞和2年/興国7年(1346年)2月18日、内大臣に任ぜられる〔母が疱瘡の所労危急のため、大饗などが行われず勅使も遣わされなかった。〕。同年10月16日、右大将を辞した。貞和3年/正平2年(1347年)1月、元日の節会で内弁を務め叙位執筆をおこなった。8月16日、内大臣を辞した。延文元年/正平11年(1356年)12月25日、従一位に叙される。延文5年/正平15年(1360年)6月8日、薨去〔水腫所労による。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「徳大寺公清」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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