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徳川 光圀(とくがわ みつくに)は、常陸水戸藩の第2代藩主。「水戸黄門」としても知られる〔「水戸黄門」とは、水戸藩主で中納言・権中納言に任命された「水戸中納言」の唐名(漢風名称)である。一般に「水戸黄門」と言えば光圀のことを指すが、水戸藩主で中納言・権中納言に任命されたのは頼房、光圀、綱條、治保、斉脩、斉昭、慶篤であるため、水戸黄門は7人いたということになる。〕。 諡号は「義公」、字は「子龍」、号は「梅里」。また神号は「高譲味道根之命」(たかゆずるうましみちねのみこと)。水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。徳川家康の孫に当たる。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。 == 概要 == 藩主時代には寺社改革や殉死の禁止、快風丸建造による蝦夷地(後の石狩国)の探検などを行った。また、後に『大日本史』と呼ばれる修史事業に着手し、古典研究や文化財の保存活動など数々の文化事業を行った。さらに、徳川一門の長老として、徳川綱吉期には幕政にも影響力を持った。 同時代から言行録や伝記を通じて名君伝説が確立しているが、江戸時代後期から近代には白髭と頭巾姿で諸国を行脚してお上の横暴から民百姓の味方をする、フィクションとしての黄門漫遊譚が確立する。水戸黄門は講談や歌舞伎の題材として大衆的人気を獲得し、昭和時代には映画やテレビドラマなどの題材とされた(水戸黄門の項を参照)。『大日本史』の編纂に必要な資料収集のために家臣を諸国に派遣したことや、隠居後に水戸藩領内を巡視した話などから諸国漫遊がイメージされたと思われるが、実際の光圀は日光、鎌倉、金沢八景、房総などしか訪れたことがなく、関東に隣接する勿来と熱海(新編鎌倉志参照)を除くと現在の関東地方の範囲から出た記録は無い。 光圀の主導した多方面の文化事業が評価されている一方で、為政者としては、石高に対し高い格式のために頼房時代から既に悪化していた藩財政に対し、広範な文化事業がさらなる財政悪化をもたらしたとの指摘がされている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「徳川光圀」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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