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徳川 光貞(とくがわ みつさだ)は、紀州藩の第2代藩主。初代藩主・徳川頼宣の長男で、徳川家康の孫。正室は伏見宮貞清親王の娘。子に5代藩主から8代将軍となった吉宗の他、綱教(3代藩主)・頼職(4代藩主)などがいる。極位極官は従二位権大納言。贈従一位。 3代将軍徳川家光や、他の徳川御三家の第2代当主(尾張藩主徳川光友・水戸藩主徳川光圀)とは従兄弟関係にある。 == 生涯 == ※日付=旧暦 寛永3年(1626年)12月11日、紀伊国和歌山城(現和歌山県和歌山市)に生まれる。幼名は長福丸。元服後、従兄弟にあたる3代将軍徳川家光から偏諱を賜い光貞と改名。 寛文7年(1667年)に父・頼宣から家督を継ぎ、元禄11年(1698年)まで31年間にわたり紀州藩の藩政を行う。法令27箇条を制定するなどの善政により、領民から慕われた。嫡男である綱教に5代将軍・徳川綱吉の長女鶴姫が嫁いだことにより、綱吉を屋敷へ招くなど将軍家と縁を深めるが、宝永元年(1704年)に鶴姫は死去した。宝永2年(1705年)には綱教が死去し、綱教の後を追うように薨去した。享年79(満78歳没)。紀伊徳川家の菩提寺である、長保寺(和歌山県海南市下津町)に葬られる。 文武両道の方針を貫いており、明律学を学んで刑法の基礎を作ったり、狩野興益や狩野探幽に師事して水墨画を描くなどした。 延宝5年(1677年)に出した農村法は家臣からの反発を受けたものの、以後は紀州藩の基本法となり、天和2年(1682年)には財政再建策の家中知行切地の合理化、元禄10年(1697年)には検地と名寄帳の整理、隠居後の元禄14年(1701年)には町人への間口税を新設する等、後に吉宗の時代にも継承された政策を実施した。〔小山誉城「徳川吉宗の藩政改革と将軍就任」2011年(『徳川将軍家と紀伊徳川家』精文堂出版)〕 紀州藩主としての治世は30年11か月であり、この間の江戸参府16回、紀州帰国16回、紀州在国の通算は16年であった。更に隠居期間が7年3か月あり、この間の江戸参府2回、紀州帰国3回であった。〔小山誉城「紀州徳川家の参勤交代」2011年(『徳川将軍家と紀伊徳川家』精文堂出版)〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「徳川光貞」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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