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徳川 宗武(とくがわ むねたけ)は、江戸時代の御三卿・田安家の初代当主であり、江戸幕府第8代将軍・吉宗の次男。官位は従三位権中納言。松平定信の実父に当たる。 == 生涯 == 徳川吉宗が紀州藩主時代の時に生まれた次男で、兄に第9代将軍の家重がいる。幼少より聡明で、荷田在満や賀茂真淵に国学・歌学・万葉を学ぶ〔 高澤憲治 著『人物叢書‐松平定信』吉川弘文館、2012年、p.2〕。 聡明であったため、身体的な障害のあった兄・家重に代わり将軍後継者に推す者もあり〔 高澤憲治 著『人物叢書‐松平定信』吉川弘文館、2012年、p.1〕、父・吉宗も一時は後継者にと考えたが、第3代将軍家光・駿河大納言忠長以来の長幼の序を重視し、家重を後継者とした。また、家重の嫡男・家治が聡明であったので、家治の将来に期待して家重を後継者にしたとも言われている。 将軍後継者問題はその後も尾を曳き、家重が将軍となった後、3年間登城停止処分を受ける。弟の宗尹も同罪とみなされ不興を被った。次期将軍に宗武を推した老中・松平乗邑も突如罷免された。その後、第7代将軍家継の生母・月光院の周旋により登城を赦され、表向きは和解したものの、以後、宗武は生涯にわたり家重と対面することはなかった。 また、宗武自身も将軍就任を望んでいたため、家重の欠点を列挙して諌奏した。そのためかえって大御所となっていた父の吉宗に咎められて延享4年(1747年)から3年間も謹慎の沙汰を受けた〔。また吉宗は、自分に反抗した徳川宗春に代えて尾張藩を継がせる所存であったが、尾張藩の抵抗により断念したと伝えられる。 学問を好み、荷田在満・賀茂真淵に師事した国学、和歌、有職故実の研究などで知られた。 宗武は15人の子女に恵まれたが、長男から四男までの男子は全て夭折したため、五男の徳川治察が嫡子となる〔。明和8年(1771年)6月4日に死去。享年57。田安徳川家は治察が継いだ〔 高澤憲治 著『人物叢書‐松平定信』吉川弘文館、2012年、p.4〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「徳川宗武」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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