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徳川 家茂(とくがわ いえもち)は、江戸幕府第14代征夷大将軍。初めは第12代将軍・徳川家慶の偏諱を賜って慶福(よしとみ)と名乗っていた。 実父・徳川斉順は家慶の異母弟で、家茂は第13代将軍・家定の従弟にあたる。将軍就任の前は徳川御三家紀州藩第13代藩主。 徳川斉順(清水徳川家および紀州徳川家の当主)の嫡男〔流産した兄がいたため次男とみなされることもある。〕だが、父は家茂が生まれる前に薨去している。祖父は第11代将軍徳川家斉、祖母は妙操院。御台所は孝明天皇の皇妹・親子内親王(静寛院宮)。第13代将軍・徳川家定の後継者問題が持ち上がった際、家定の従弟にあたる慶福は徳川氏の中で将軍家に最も近い血筋であることを根拠に〔当時慶福よりも血筋が近い者として家定の叔父にあたる美作津山藩主松平斉民と阿波徳島藩主蜂須賀斉裕がいたが、徳川家を出て他家の養子となっていたためどちらも将軍後継者として みなされなかった。皮肉なことに、この両者とも家茂より長生きし、実子を儲けている。〕、大老で譜代筆頭の彦根藩主井伊直弼ら南紀派の支持を受けて13歳で第14代将軍となる。 == 生涯 == 弘化3年(1846年)閏5月24日、紀州藩第11代藩主・徳川斉順の次男として江戸の紀州藩邸(現:東京都港区)で生まれる。なお、兄にあたる幻成院英晃常暉大童子は文政12年(1830年)に死産している(南紀徳川史第二冊)。幼名は菊千代(きくちよ)。嘉永2年(1849年)に叔父で第12代藩主である徳川斉彊が死去したため、その養子として家督を4歳で継いだ。嘉永4年(1851年)に元服し、当時の将軍(第12代将軍)・徳川家慶より1字を賜い慶福(よしとみ)と名乗り、同時に常陸介に任官、従三位に叙位。 幼少故に当初は隠居した元藩主・徳川治宝が補佐したが、その死去後は徳川家慶の側室を妹に持つ付家老・水野忠央が実権を握り、伊達千広(陸奥宗光の父)をはじめとする藩政改革派が弾圧された。(和歌山市史) 紀州藩主としての治世は9年2か月であり、この間の江戸に居続けたまま将軍となったため、江戸参府も紀州帰国もなかった〔小山誉城「紀州徳川家の参勤交代」2011年(『徳川将軍家と紀伊徳川家』精文堂出版)〕。 安政5年(1858年)、一橋派との抗争の末に勝利し、直後に第13代将軍・徳川家定も死去したために第14代将軍となった。慶福改め家茂(いえもち)はこの時13歳という若年であったが、第13代将軍・徳川家定の従兄弟に当たり、前将軍の最近親ということから、血縁を徳川家康まで遡らなくてはならない一橋慶喜を抑えて将軍に就任した。しかし、文久2年(1862年)までは田安慶頼〔慶頼も大老・井伊直弼の傀儡であったといわれる。〕が、その後は慶喜〔ちなみに、慶喜の伯父にあたる徳川斉脩の正室は家茂の父である徳川斉順の同母姉、峯姫。〕が「将軍後見職」に就いていたため、その権力は抑制されていた。 文久2年(1862年)に公武合体策の一環として和宮と結婚。文久3年(1863年)には将軍としては229年振りとなる上洛を果たし、義兄に当たる孝明天皇に攘夷を誓った。慶応元年(1865年)、兵庫開港を決定した老中・阿部正外らが朝廷によって処罰されると、自ら将軍職の辞意を朝廷に上申している。このとき天皇は大いに驚き慌てて辞意を取り下げさせ、その後の幕府人事への干渉をしないと約束したという。 慶応2年(1866年)、第2次長州征伐の途上、家茂は大坂城で病に倒れた。この知らせを聞いた天皇は、典薬寮の医師である高階経由と福井登の2人を大坂へ派遣し、その治療に当たらせた。江戸城からは、天璋院や和宮の侍医として留守を守っていた大膳亮弘玄院、多紀養春院(多紀安琢)、遠田澄庵、高島祐庵、浅田宗伯らが大坂へ急派された。しかしその甲斐なく、同年7月20日に薨去した。享年21(満20歳没)。 家茂は死に際して徳川宗家の後継者・次期将軍として田安亀之助(慶頼の子、後の将軍家第16代当主・徳川家達)の指名を遺言としたが、それは実現されず、慶喜が第15代将軍となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「徳川家茂」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Tokugawa Iemochi 」があります。 スポンサード リンク
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