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蜂須賀 随子(はちすか よりこ、嘉永7年(1854年閏7月5日) - 大正12年(1923年)10月4日)は、旧阿波国徳島藩主・蜂須賀茂韶の妻。 == 生涯 == 常陸水戸藩主・徳川慶篤の長女として江戸小石川の藩邸に生まれる。母は線宮幟子女王(有栖川宮幟仁親王女)。初名は随姫。華族女学校に学び、和歌を間宮八十子、小杉榲邨、松浦正明に学ぶ。 明治14年(1881年)、28歳の時、旧徳島藩主・蜂須賀茂韶の継室となる。蜂須賀年子の著書『大名華族』〔三笠書房, 1957年。 蜂須賀年子は随子の義理の孫。〕によると、この時、茂韶には11人の側室がおり、随子は嫁ぐに際して11人すべてに暇を出すことを条件に出したという。また、随子はかつて松平大和守と婚約していたため、「二夫にまみえず」の女訓から肉体関係を持つことを拒み、侍女として萩原きょうという美女を連れて嫁ぎ、自分の身代わりとして扱うよう求めたという。 結婚前に側室より生まれていた蜂須賀正韶の嫡母として遇され、正韶の妻には随子の縁で徳川慶喜の娘・筆子(随子の従妹)が迎えられた。また明治18年(1885年)に清水徳川家7代当主・徳川篤守の娘・貞子(随子の姪)を養子にする。歌集に『千尋のみどり』がある。大正12年(1923年)に没する。享年70。 なお、随子の最初の婚約者は、蜂須賀年子の『大名華族』では「松平大和守」とあり、川越藩松平家かと思われるが、明治初め頃に作成されたと思われる『常陸水戸徳川家譜』〔東大史料編纂所蔵。『茨城県史料 近世政治編1』収録。随子の名はないが、慶篤の娘で成長したのは随子のみである。〕では、「松平定教室」とある。『平成新修旧華族家系大成』によると桑名藩主・松平定敬の正室であり、明治12年(1879年)に離婚したとされているが、これは松平定教との混同と思われる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蜂須賀随子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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